2005年10月21日
ボクが現在、ディレクターをやめている理由
【昭太郎のひとりごと 1】
何が苦手と言って文章を書くのは本気も本気、掛け値なしに苦手で、それも少数とはいえ不特定多数の人たちの眼に触れる、というのをどう捉えれば良いのかの肌触りが分からない。怖い。
#
まだ現役でディレクターをやっていた時も、数えたことはないけれど、70本ほどのドキュメンタリー番組を作ったかなあ、そのうちの多くにナレーションをつけなかった。ナレーションが下手、という単純な理由からである。演出意図でナレーションを省略するのではなくて、ナレーションが書けないから、結果的に省略した番組が出来上がっていく。
おかしなことに、またそれが面白い、という人たちが現れる。それを演出だと勘違いしてくれる。正直、それは好都合なのでボクは演出だった振りをする。振りをしているうちに、中には上手くはまる番組が生まれることもある。そして、それが評価され喜んでいる自分がいたりする。実際に新聞の批評欄で放送評論家からしばしば取りあげられ、傲慢にもそれが当然だと思うようにもなっていた。
しかし、そういう在り様は必ず行き詰る。それが証拠にボクは現在ディレクターをやめている。
本当にモノを作りたい人たちは、死ぬまでモノ作りをやめる事はない。芸能や伝統工芸、絵画、活字等々の世界は勿論だが、テレビ映像の世界も同様で、ボクの周りにもそんな人たちが沢山いる。
わが社の最年長者は70歳で毎週の企画会議で必ず新しい企画を捻り出してくるし、68歳の女性ディレクターはチェコのプラハを取材したドキュメンタリーを先日、完成させた。昨年末に制作したある地方局の30周年記念番組の演出を75歳の脚本家が行い、それなりの番組に仕上げた。70歳を迎えようというのに、10キロ以上もの重量のあるカメラ機材を担いで走り回っているカメラマンもいる。
それらの人たちに共通しているのは本当に好きだから続けている、ということだ。一作品終われば次にまた作りたいという衝動に突き動かされる。その点が、途中でディレクターであることをやめたボクとの決定的な違いなのだろう。
テレビ界はどんどん若返っている。テレビ局で40歳を過ぎた作り手がディレクターとして現場にいることは難しい。バラエティー番組では、中心で活躍しているのは20歳代で、プロデューサーは30歳代半ばまでである。古びた表現は切り捨てられていく。
テレビとインターネットの境目がなくなろうとしている急激な変化の時代に、その世界で生き抜くことは誰にとっても容易ではない。しかし、この「好き」に年齢はないし、勝てるものはたぶんないんだろうなあ。もしかすると、苦しむことが必定ならば、本当に好きな世界で苦しみ、あがき、滅びていくことを選択できる表現者たちは幸せかも知れない。
ここで思い当たる。ボクはどうしてディレクターをやめたのか。
本気で好きじゃなかっただけ、に過ぎない。それを文章を書くのが苦手だからだ、とこの冒頭でも言い訳している自分がいる。実際、"書く"というのは自分の能力や考えの中味をさらけ出す作業で、もともと映像だって絵画だって彫刻だって、全ての表現とは否応なく作り手を裸にしてしまうものなのだが、自分の才能や中味のなさを最も如実に暴かれてしまうのが文章だ、と思い込んでいる。
自分をありのままの自分として見られることを恐れたことが、実はボクがディレクターという表現者を途中で投げ出した一番の言い訳だった気がする。苦手という言葉は、意識は、そこから逃げ出し自分の殻の中に身を守ろうとする行為のことを表わすための方便を指すのかもしれない。
こんな文章を書いていること自体がいかにも甘ったれている。格好をつけている。臆病だ。プロダクションという表現する場を維持するために恥も外聞もなく、なりふりかまわずやってきた、とそう思っていた。
しかし、一方で格好をつけ、等身大の自分を見せることが出来ていない。裸の自分を晒す勇気を持たない限り、表現者にも、ましてや表現者たちのための場の提供者にもなれないことに、遅まきながら気付き始めている。
実はこれまで、この種の事について考えたことはない。事実、意味のあることとも思えない。ましてやボク以外の人間にとってはどうでも良いことだ。でも、不思議な人物の登場で過去の因果が祟りとなって突然姿を現し、「わたしに向かってひとり言を言え」とおっしゃるので1行だけの言い訳のつもりが、ついつい長くなり、全く考えてもいなかった展開になってしまった。
何が苦手と言って文章を書くのは本気も本気、掛け値なしに苦手で、それも少数とはいえ不特定多数の人たちの眼に触れる、というのをどう捉えれば良いのかの肌触りが分からない。怖い。
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まだ現役でディレクターをやっていた時も、数えたことはないけれど、70本ほどのドキュメンタリー番組を作ったかなあ、そのうちの多くにナレーションをつけなかった。ナレーションが下手、という単純な理由からである。演出意図でナレーションを省略するのではなくて、ナレーションが書けないから、結果的に省略した番組が出来上がっていく。
おかしなことに、またそれが面白い、という人たちが現れる。それを演出だと勘違いしてくれる。正直、それは好都合なのでボクは演出だった振りをする。振りをしているうちに、中には上手くはまる番組が生まれることもある。そして、それが評価され喜んでいる自分がいたりする。実際に新聞の批評欄で放送評論家からしばしば取りあげられ、傲慢にもそれが当然だと思うようにもなっていた。
しかし、そういう在り様は必ず行き詰る。それが証拠にボクは現在ディレクターをやめている。
本当にモノを作りたい人たちは、死ぬまでモノ作りをやめる事はない。芸能や伝統工芸、絵画、活字等々の世界は勿論だが、テレビ映像の世界も同様で、ボクの周りにもそんな人たちが沢山いる。
わが社の最年長者は70歳で毎週の企画会議で必ず新しい企画を捻り出してくるし、68歳の女性ディレクターはチェコのプラハを取材したドキュメンタリーを先日、完成させた。昨年末に制作したある地方局の30周年記念番組の演出を75歳の脚本家が行い、それなりの番組に仕上げた。70歳を迎えようというのに、10キロ以上もの重量のあるカメラ機材を担いで走り回っているカメラマンもいる。
それらの人たちに共通しているのは本当に好きだから続けている、ということだ。一作品終われば次にまた作りたいという衝動に突き動かされる。その点が、途中でディレクターであることをやめたボクとの決定的な違いなのだろう。
テレビ界はどんどん若返っている。テレビ局で40歳を過ぎた作り手がディレクターとして現場にいることは難しい。バラエティー番組では、中心で活躍しているのは20歳代で、プロデューサーは30歳代半ばまでである。古びた表現は切り捨てられていく。
テレビとインターネットの境目がなくなろうとしている急激な変化の時代に、その世界で生き抜くことは誰にとっても容易ではない。しかし、この「好き」に年齢はないし、勝てるものはたぶんないんだろうなあ。もしかすると、苦しむことが必定ならば、本当に好きな世界で苦しみ、あがき、滅びていくことを選択できる表現者たちは幸せかも知れない。
ここで思い当たる。ボクはどうしてディレクターをやめたのか。
本気で好きじゃなかっただけ、に過ぎない。それを文章を書くのが苦手だからだ、とこの冒頭でも言い訳している自分がいる。実際、"書く"というのは自分の能力や考えの中味をさらけ出す作業で、もともと映像だって絵画だって彫刻だって、全ての表現とは否応なく作り手を裸にしてしまうものなのだが、自分の才能や中味のなさを最も如実に暴かれてしまうのが文章だ、と思い込んでいる。
自分をありのままの自分として見られることを恐れたことが、実はボクがディレクターという表現者を途中で投げ出した一番の言い訳だった気がする。苦手という言葉は、意識は、そこから逃げ出し自分の殻の中に身を守ろうとする行為のことを表わすための方便を指すのかもしれない。
こんな文章を書いていること自体がいかにも甘ったれている。格好をつけている。臆病だ。プロダクションという表現する場を維持するために恥も外聞もなく、なりふりかまわずやってきた、とそう思っていた。
しかし、一方で格好をつけ、等身大の自分を見せることが出来ていない。裸の自分を晒す勇気を持たない限り、表現者にも、ましてや表現者たちのための場の提供者にもなれないことに、遅まきながら気付き始めている。
実はこれまで、この種の事について考えたことはない。事実、意味のあることとも思えない。ましてやボク以外の人間にとってはどうでも良いことだ。でも、不思議な人物の登場で過去の因果が祟りとなって突然姿を現し、「わたしに向かってひとり言を言え」とおっしゃるので1行だけの言い訳のつもりが、ついつい長くなり、全く考えてもいなかった展開になってしまった。
■管理者のつぶやき
わたしの傍若無人なふるまいに、小田昭太郎氏が応えてくださいました。
閲覧者のみなさまと共有できる世界があるのかどうか、自問自答しています。
ここに至る道のりは、こちらをお読みください。
富永太郎の詩篇「影絵」の冒頭と末尾に登場する、
半缺けの日本(にっぽん)の月の下に、
ふいにあらわれたシルエットを、ゆっくり眺めてみたくなったのです。
わたしの傍若無人なふるまいに、小田昭太郎氏が応えてくださいました。
閲覧者のみなさまと共有できる世界があるのかどうか、自問自答しています。
ここに至る道のりは、こちらをお読みください。
富永太郎の詩篇「影絵」の冒頭と末尾に登場する、
半缺けの日本(にっぽん)の月の下に、
ふいにあらわれたシルエットを、ゆっくり眺めてみたくなったのです。
miko3355 at 13:59│TrackBack(0)│小田昭太郎のシルエット
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この記事へのコメント
1. Posted by miko 2005年10月21日 14:39
この一文を読んで想起したのは、高校時代に授業を受けた、すばらしく頭のよい数学教師が、授業中に発した言葉です。
「ぼくは国語は教えられない。国語を教えると、自分の人生がはね返ってくるから」
そのときわたしが思ったのは、そんな感性の教師にこそ国語を教えてもらいたい。
いま、わたしが思うのは、いまの小田さんが制作した番組を観たいなあ……。
で、その教師はこんなこともいいました。
「関数というのは、Xに対応するYが必ず存在する。無関係というのは、無関係という関係があるのです」
彼はレトリックをもちいる人間ではなかったので、これもレトリックではないと思います。
授業と関係ない話がこの2点だけだったので、よけいに記憶に残っています。
「ぼくは国語は教えられない。国語を教えると、自分の人生がはね返ってくるから」
そのときわたしが思ったのは、そんな感性の教師にこそ国語を教えてもらいたい。
いま、わたしが思うのは、いまの小田さんが制作した番組を観たいなあ……。
で、その教師はこんなこともいいました。
「関数というのは、Xに対応するYが必ず存在する。無関係というのは、無関係という関係があるのです」
彼はレトリックをもちいる人間ではなかったので、これもレトリックではないと思います。
授業と関係ない話がこの2点だけだったので、よけいに記憶に残っています。