2006年11月29日
馬渕直城著『わたしが見たポル・ポト キリングフィールズを駆けぬけた青春』
集英社から2006年9月10日に刊行された本書を知ったのは、朝日新聞の広告だった。
10月22日にBS2で放映された「週間ブックレビュー」で、本書がとりあげられたのを興味深く観た。
推薦人は西木正明(作家)で、ジャーナリストが現場にいることの重要性を強調していた。スタジオが異様な熱気に包まれたのは、司会が永田渚左(ノンフィクション作家)だったのも大きいと思う。
正直なところ、本書の感想を書くのは気が重い。わたしがインドシナ情勢にきわめて疎いからである。もちろんあまりにも有名な一ノ瀬泰造については知っていたけれど。
そんなわたしが本書を読み、「事実」とはなにか、「馬渕直城の見た事実は正しいのか」、ますますわからなくなったのである。
にもかかわらず、わたしは拙い感想を記そうとしている。
馬渕についてはこちらにアップしたように、クンサー会見の立役者として認識しているので、勝手な親近感を抱いているからである。
また、本日が馬渕の尊敬する一ノ瀬泰造の祥月命日らしいので、その記念としたい。
(蛇足ながら、わたしの誕生日である)
本書を読むのは骨が折れた。構成に難点があり、せっかくの馬渕直城の体験が存分に表現できていない、というのが率直な読後感である。
馬渕はあとがきに、友人と家族への感謝の念を記しているが、編集者はどういう対応をしていたのか。素人判断で恐縮だが、編集者によって内容構成に差がでてくると思うので、残念でならない。
あと、馬渕の人物像が浮かぶような書きこみがあれば、読者としてはもっと愉しめたと思う。
わたしは本書を馬渕直城の青春の書として読んだ。
馬渕の報道写真家としての原点がここに刻印されている。
共同通信社プノンペン支局長・石山幸基とフリーカメラマン・一ノ瀬泰造。戦地でいのちを奪われたふたりの魂に牽引されながら、激戦地で馬渕は生き延びる。そして、ふたりの死にどう「精神的決着」をつけるべきか問いつづけている。その答えをだそうとする営みが、馬渕直城の生の軌跡なのだろう。
*
馬渕直城(1944年生まれ)の報道写真家としての目的地は、インドシナ半島。
1972年12月、カンボジアの戦場を本格的に取材するため隣国タイから陸路ポイペットの国境を越えた。
1973年、戦場で一ノ瀬泰造と知り合う。
すぐ近くにAP通信社のドイツ人カメラマン・ホルスト・ファースト(ピュリッツアー賞を受賞)がいた。あなたの写真に感銘を受け、カメラマンになりたくてカンボジアに来たのだ、と馬渕は自己紹介した。
泰造は攻撃シーンを至近距離から広角度レンズを使って撮っていたが、ホルスト・ファーストは糊の利いた白い半袖シャツを着て、遠くの安全レンズを付けた真新しいライカフレックスで撮っている。それを見た馬渕は裏切られた気がした。
この日に見た、銃弾が飛び交う路上に立って写真を撮っていた泰造の姿が脳裡から離れない馬渕は、戦場カメラマンとしての自己のあるべき姿について模索しはじめる。
やがて激戦地での体験から、「運の良し悪しを嗅ぎ分ける己の勘」という「身体の奥底にある不思議な感覚」に目覚める。
プノンペンでさまざまな戦場カメラマンと知り合うなかで、馬渕は独自のスタイルをみいだす。解放側に立った写真を撮るという理念を堅持しつつ。
*
1973年8月、馬渕は石山幸基(共同通信社の記者)と一ノ瀬泰造(フリーカメラマン)とともに、国道4号線上の隣町コンポン・スプーへ取材に出かける。ふたりはその日のうちにプノンペンに戻ったが、馬渕は一泊してから帰ることにした。
翌日、帰路につく途中、政府軍の作戦に随行して兵士たちの写真を撮ろうとした馬渕は、解放軍の米国製M-79小型榴弾が目の前で爆発し、大地に叩きつけられた。
野戦病院で軍医の応急手術を受け、身体に潜り込んだ破片を摘出。馬渕が提げていた血だらけのカメラは、300ミリのレンズが壊れ、榴弾の破片を止めていた。
軍医は掌にある十字架のついたロザリオを見せた。それは別れたタイの恋人がくれたものだった。銀の十字架には、性質の悪い鋭利な破片が突き刺さり、十字架が心臓への直撃を喰い止めていた。
いまも、その時の破片が馬渕の体じゅうに残っているという。
ここでわたしは思う。なぜ馬渕は別れたタイの恋人がくれたロザリオを身につけていたのか。そこらへんを書いてもらえると、読者として馬渕直城へのイメージを膨らませることができるので、助かるのである。
*
1973年10月10日に解放区へ取材に入ることを、馬渕はその前日に石山から教えられる。石山は周囲に漏らすことなく、助手のトイと二人だけで潜入計画を練り、難しかった解放側との連絡を成功させていた。一緒に連れていってくれと頼む馬渕に、取材が成功したらカメラマンが来るといってやるといい、トイの運転する車に乗って出かけていった。
石山の出発から1ヵ月が過ぎた頃、プノンペン近郊のウドンの町からアンコール・ワット方面に取材に向かったようだという噂が流れた。
石山に先を越されるのではと焦ったのか、泰造(当時26歳)は、マラリアで40度近い熱があったにもかかわらず、再度のアンコール・ワットへの潜入を目指して、シアム・リアップの街へ向かった。
11月も終わりになる頃、シアム・リアップに行った泰造が、政府軍を振り切ってアンコール・ワットに入っていったことがわかった。しばらくすると、解放側で写真を撮っているという情報が漏れ伝わってきた。
石山が出発して2ヵ月が過ぎた頃、共同通信の本社から人が来て、周囲で慌ただしい動きがあった。何をしに来たのか教えてもらえない馬渕は、1、2ヵ月は向こうにいた方がいいと石山が言っていたのを思い出し、楽観視していた。
1981年7月、石山が解放区の取材中に病死していたことがわかった。当時31歳。埋葬されたのは、"カンプチア民族解放統一戦線兵士たちの共同墓地"。
(註・共同通信の現地調査により、1974年1月20日ごろ、解放区内山中で死亡していたことが判明)
1973年11月にアンコール・ワットへ単独潜行したまま行方不明だった一ノ瀬泰造については、1982年2月、両親がプラダック村の草原で遺体を確認。
当時の報道では、アンコール・ワットに入ってすぐに捕まり、10日から14日後にCIAのスパイということでポル・ポト派に殺された、となっている。
しかし本書によると(p.143〜p.144)、馬渕が偶然雇った運転手がベトナム人で、事件のことを知っていた。直接泰造に手を下したのはクメール・ルージュの司令官、同志(ムット)ルアンで、ハノイで教育されたクメール・ベトミンと呼ばれるベトナム派だという。当時のアンコール・ワットに駐留していた北ベトナム軍の命令あるいは許可の下で殺害されたにちがいないこともわかった。
この明らかな相違についてどう判断していいのか、わたしにはわからない。
*
『地雷を踏んだらサヨウナラ』(一ノ瀬泰造/講談社文庫/1985年3月)の巻末に、馬渕の〔戦場での一ノ瀬君〕という一文が収められている。
それにつづく〔文庫版へのあとがき〕の末尾には《一九八四年十一月二十九日 泰造の祥月命日に記す 一ノ瀬清二 信子》とある。内容から推測して父親が記したようだが、その筆力には感心する。
1982年2月1日、行方不明になってから8年後、まさにカンボジアの土と化した我が子の亡骸と対面する場面が、冷静な筆致で描かれていて胸を打つ。
泰造にとって、いや戦場カメラマンにとって、最高の両親である。
1973年4月27日、泰造は一時帰国し、10日間日本に滞在する。両親への置土産は、ベトナムで撮影中に手榴弾が命中して内蔵のはみ出した1台のカメラ。
このとき朝日新聞の出版写真部の部屋に顔を出した泰造を、石川文洋が活写しているので、一部を引用する。
『戦場カメラマン』(石川文洋/朝日文庫/1986年6月)
(p.944〜p.960―「自由」と「存在感」を求めた泰造君の青春)
《戦場の泥がこびりついている野戦バッグとカメラを肩にし、硝煙がただよっているような姿を、私たちカメラマン仲間はある種の感動の目を持って見つめた。
そこからは都会の人間にはない、荒野の中で生きる一匹狼のように、強さと孤独が共存する雰囲気が感じられた。それまでに『週刊朝日』に泰造君の写真が掲載されていたし、現地から送られてきたネガも見ていたので、泰造君の存在は、よく知っていた。
泰造君の撮影した写真を見ながら、当時、出版写真部のデスクをしていた秋元啓一と「随分と危険なところで、写真を撮っているなあ」と心配をしたことがある。その泰造君が顔を見せたのである。私たちは、部屋の椅子に座った泰造君を囲んで、現地の話を聞いた。
その時、私自身も数日後にはハノイへ向かい、解放区となったクアンチ省への取材に、東京を出発する予定になっていた。泰造君は、そのクアンチ省の、解放区とサイゴン政府地区の境界になっているタクハン川での、捕虜交換を取材して、『週刊朝日』に発表をしていた。
決して雄弁ではないが、泰造君の南ベトナムでの戦場の話は、私にとって、大変刺激的だった。いや話よりも、泰造君そのものから受ける刺激の方が強かった、と言った方が良いだろう。軍服を着てあの暑い戦場で、サイゴン軍の兵士たちと、従軍している様子が、目に浮かんでくるようだ。
泰造君の持ってきた銃弾で穴のあいたニコンを、みんなで驚きながら眺めた。秋元啓一は、早速そのカメラを『アサヒカメラ』の編集部に持って行って、「オイ、このカメラだけでも絵になるぞ」と説明をしていた》
「なぜフリーカメラマンはインドシナへ向かうのか」というテーマについて石川はつぎのように記している。
《アンコール・ワットのそばへ行きたい、という泰造君の気持ちは、それを撮影することによって、自分の存在感を自分自身で感じよう、としたのだと思う。そのことによって得られるかもしれない、収入や栄光や名声は、泰造君にとっては、手紙で書く程には問題にしていなかったのではないだろうか》
*
ポル・ポト政権下で大虐殺はなかった、という馬渕の説は、とてもわかりにくい。
〔あとがき〕に《米軍やベトナム軍の侵略に抵抗するのは当然のことだけれど、戦争からの復興という難事業やそれを通じて理想社会をつくる過程で、人を殺めることがあったとしたら、それは理想に反することになります》と記されているのはどういう意味なのか。
上述の『戦場カメラマン』(p.799〜p.872)で、石川はカンボジア大虐殺について記している。
前文として、本多勝一編『虐殺と報道』(すずさわ書店/1980年11月)に収められている、アンケートに対する返答を転載している。
1979年、1980年と2度にわたってカンボジアを訪問、数ヵ所の虐殺現場を取材したという石川は、大虐殺があったのは事実だと信じていて、《もし、大虐殺がなかったことが明らかにされた場合、私は現場へ行きながら、事実を見誤った責任をとって今後、報道にたずさわる仕事をやめる覚悟でいます》と。
*
馬渕直城は1975年4月17日のプノンペン解放を取材した唯一の日本人である。
ポル・ポトに2回会見している。
1回めは1979年12月で、2回めは1998年1月。
2回めのときポル・ポトの体調が悪化し、馬渕は十分な話が聞けなかった。
このときポル・ポトは、「ユオン(ベトナム人に対する蔑称)が来なければ我々の闘争は起きなかった」と語ったという。
4月15日早朝、タイ軍がポル・ポト死亡のニュースを流した。
「ポル・ポトの遺体確認後、写真を撮る著者」(1998年4月16日、地元タイ紙撮影)というキャプションの写真が掲載されている。
つぎの記述に馬渕の写真家としての生理を感じた。
(p.280)
《傷心いちじるしい妻や、十四歳の娘をカメラの放列にさらすのは無神経だと思ったが、長い髪の下から、キッとこちらを見つめる娘の眼に引かれて私も思わずシャッターを押した》
ポル・ポトの葬儀に立ち合った馬渕が描いている、孤独なポル・ポトの最期も印象的だが、わたしが本書に登場する人物のなかで最も強烈な印象を受けたのは、悲惨な死を遂げたセイニーである。(p.133〜p.141)
背負いきれない哀しみに自滅してゆく人間に、わたしは共感する。
ここでふと考えた。強靱な肉体と精神を併せもつ馬渕に、"弱さ"はないのだろうか。
靱い男が弱さを垣間見せたとき、意外と魅力的である。
ユージン・スミス(フォト・ジャーナリスト)は、「生まれかわる前は日本人だったのではないか」と、妻のアイリーンに語ったという。
馬渕直城は、前世ではクメール人だったにちがいない。
〔追記 2006/12/03〕
『噂の眞相』(1983年2月号)に共同通信・記者の石山氏と同期入社の伊藤正氏が記した、「カンボジアの戦場に消え去った共同通信特派員・石山幸基の軌跡」が掲載されているのを、ネットでの検索により知った。こちらの電子書店からダウンロードして、さきほど読了。じつに興味深い内容だ。
伊藤氏は石山氏の遺稿集『コンポンスプーに楽土を見た―戦場に消えた石山幸基記者の記録 』(石山幸基著/共同通信石山委員会編/三草社/1982年) の編集責任者である。
上記遺稿集をオンライン書店で注文したので、近日中に入手できるだろう。馬渕氏の『わたしが見たポル・ポト』を拝読して刺激された事柄について、遅ればせながら自分なりに考えてゆくための材料にしたい。
10月22日にBS2で放映された「週間ブックレビュー」で、本書がとりあげられたのを興味深く観た。
推薦人は西木正明(作家)で、ジャーナリストが現場にいることの重要性を強調していた。スタジオが異様な熱気に包まれたのは、司会が永田渚左(ノンフィクション作家)だったのも大きいと思う。
正直なところ、本書の感想を書くのは気が重い。わたしがインドシナ情勢にきわめて疎いからである。もちろんあまりにも有名な一ノ瀬泰造については知っていたけれど。
そんなわたしが本書を読み、「事実」とはなにか、「馬渕直城の見た事実は正しいのか」、ますますわからなくなったのである。
にもかかわらず、わたしは拙い感想を記そうとしている。
馬渕についてはこちらにアップしたように、クンサー会見の立役者として認識しているので、勝手な親近感を抱いているからである。
また、本日が馬渕の尊敬する一ノ瀬泰造の祥月命日らしいので、その記念としたい。
(蛇足ながら、わたしの誕生日である)
本書を読むのは骨が折れた。構成に難点があり、せっかくの馬渕直城の体験が存分に表現できていない、というのが率直な読後感である。
馬渕はあとがきに、友人と家族への感謝の念を記しているが、編集者はどういう対応をしていたのか。素人判断で恐縮だが、編集者によって内容構成に差がでてくると思うので、残念でならない。
あと、馬渕の人物像が浮かぶような書きこみがあれば、読者としてはもっと愉しめたと思う。
わたしは本書を馬渕直城の青春の書として読んだ。
馬渕の報道写真家としての原点がここに刻印されている。
共同通信社プノンペン支局長・石山幸基とフリーカメラマン・一ノ瀬泰造。戦地でいのちを奪われたふたりの魂に牽引されながら、激戦地で馬渕は生き延びる。そして、ふたりの死にどう「精神的決着」をつけるべきか問いつづけている。その答えをだそうとする営みが、馬渕直城の生の軌跡なのだろう。
*
馬渕直城(1944年生まれ)の報道写真家としての目的地は、インドシナ半島。
1972年12月、カンボジアの戦場を本格的に取材するため隣国タイから陸路ポイペットの国境を越えた。
1973年、戦場で一ノ瀬泰造と知り合う。
すぐ近くにAP通信社のドイツ人カメラマン・ホルスト・ファースト(ピュリッツアー賞を受賞)がいた。あなたの写真に感銘を受け、カメラマンになりたくてカンボジアに来たのだ、と馬渕は自己紹介した。
泰造は攻撃シーンを至近距離から広角度レンズを使って撮っていたが、ホルスト・ファーストは糊の利いた白い半袖シャツを着て、遠くの安全レンズを付けた真新しいライカフレックスで撮っている。それを見た馬渕は裏切られた気がした。
この日に見た、銃弾が飛び交う路上に立って写真を撮っていた泰造の姿が脳裡から離れない馬渕は、戦場カメラマンとしての自己のあるべき姿について模索しはじめる。
やがて激戦地での体験から、「運の良し悪しを嗅ぎ分ける己の勘」という「身体の奥底にある不思議な感覚」に目覚める。
プノンペンでさまざまな戦場カメラマンと知り合うなかで、馬渕は独自のスタイルをみいだす。解放側に立った写真を撮るという理念を堅持しつつ。
*
1973年8月、馬渕は石山幸基(共同通信社の記者)と一ノ瀬泰造(フリーカメラマン)とともに、国道4号線上の隣町コンポン・スプーへ取材に出かける。ふたりはその日のうちにプノンペンに戻ったが、馬渕は一泊してから帰ることにした。
翌日、帰路につく途中、政府軍の作戦に随行して兵士たちの写真を撮ろうとした馬渕は、解放軍の米国製M-79小型榴弾が目の前で爆発し、大地に叩きつけられた。
野戦病院で軍医の応急手術を受け、身体に潜り込んだ破片を摘出。馬渕が提げていた血だらけのカメラは、300ミリのレンズが壊れ、榴弾の破片を止めていた。
軍医は掌にある十字架のついたロザリオを見せた。それは別れたタイの恋人がくれたものだった。銀の十字架には、性質の悪い鋭利な破片が突き刺さり、十字架が心臓への直撃を喰い止めていた。
いまも、その時の破片が馬渕の体じゅうに残っているという。
ここでわたしは思う。なぜ馬渕は別れたタイの恋人がくれたロザリオを身につけていたのか。そこらへんを書いてもらえると、読者として馬渕直城へのイメージを膨らませることができるので、助かるのである。
*
1973年10月10日に解放区へ取材に入ることを、馬渕はその前日に石山から教えられる。石山は周囲に漏らすことなく、助手のトイと二人だけで潜入計画を練り、難しかった解放側との連絡を成功させていた。一緒に連れていってくれと頼む馬渕に、取材が成功したらカメラマンが来るといってやるといい、トイの運転する車に乗って出かけていった。
石山の出発から1ヵ月が過ぎた頃、プノンペン近郊のウドンの町からアンコール・ワット方面に取材に向かったようだという噂が流れた。
石山に先を越されるのではと焦ったのか、泰造(当時26歳)は、マラリアで40度近い熱があったにもかかわらず、再度のアンコール・ワットへの潜入を目指して、シアム・リアップの街へ向かった。
11月も終わりになる頃、シアム・リアップに行った泰造が、政府軍を振り切ってアンコール・ワットに入っていったことがわかった。しばらくすると、解放側で写真を撮っているという情報が漏れ伝わってきた。
石山が出発して2ヵ月が過ぎた頃、共同通信の本社から人が来て、周囲で慌ただしい動きがあった。何をしに来たのか教えてもらえない馬渕は、1、2ヵ月は向こうにいた方がいいと石山が言っていたのを思い出し、楽観視していた。
1981年7月、石山が解放区の取材中に病死していたことがわかった。当時31歳。埋葬されたのは、"カンプチア民族解放統一戦線兵士たちの共同墓地"。
(註・共同通信の現地調査により、1974年1月20日ごろ、解放区内山中で死亡していたことが判明)
1973年11月にアンコール・ワットへ単独潜行したまま行方不明だった一ノ瀬泰造については、1982年2月、両親がプラダック村の草原で遺体を確認。
当時の報道では、アンコール・ワットに入ってすぐに捕まり、10日から14日後にCIAのスパイということでポル・ポト派に殺された、となっている。
しかし本書によると(p.143〜p.144)、馬渕が偶然雇った運転手がベトナム人で、事件のことを知っていた。直接泰造に手を下したのはクメール・ルージュの司令官、同志(ムット)ルアンで、ハノイで教育されたクメール・ベトミンと呼ばれるベトナム派だという。当時のアンコール・ワットに駐留していた北ベトナム軍の命令あるいは許可の下で殺害されたにちがいないこともわかった。
この明らかな相違についてどう判断していいのか、わたしにはわからない。
*
『地雷を踏んだらサヨウナラ』(一ノ瀬泰造/講談社文庫/1985年3月)の巻末に、馬渕の〔戦場での一ノ瀬君〕という一文が収められている。
それにつづく〔文庫版へのあとがき〕の末尾には《一九八四年十一月二十九日 泰造の祥月命日に記す 一ノ瀬清二 信子》とある。内容から推測して父親が記したようだが、その筆力には感心する。
1982年2月1日、行方不明になってから8年後、まさにカンボジアの土と化した我が子の亡骸と対面する場面が、冷静な筆致で描かれていて胸を打つ。
泰造にとって、いや戦場カメラマンにとって、最高の両親である。
1973年4月27日、泰造は一時帰国し、10日間日本に滞在する。両親への置土産は、ベトナムで撮影中に手榴弾が命中して内蔵のはみ出した1台のカメラ。
このとき朝日新聞の出版写真部の部屋に顔を出した泰造を、石川文洋が活写しているので、一部を引用する。
『戦場カメラマン』(石川文洋/朝日文庫/1986年6月)
(p.944〜p.960―「自由」と「存在感」を求めた泰造君の青春)
《戦場の泥がこびりついている野戦バッグとカメラを肩にし、硝煙がただよっているような姿を、私たちカメラマン仲間はある種の感動の目を持って見つめた。
そこからは都会の人間にはない、荒野の中で生きる一匹狼のように、強さと孤独が共存する雰囲気が感じられた。それまでに『週刊朝日』に泰造君の写真が掲載されていたし、現地から送られてきたネガも見ていたので、泰造君の存在は、よく知っていた。
泰造君の撮影した写真を見ながら、当時、出版写真部のデスクをしていた秋元啓一と「随分と危険なところで、写真を撮っているなあ」と心配をしたことがある。その泰造君が顔を見せたのである。私たちは、部屋の椅子に座った泰造君を囲んで、現地の話を聞いた。
その時、私自身も数日後にはハノイへ向かい、解放区となったクアンチ省への取材に、東京を出発する予定になっていた。泰造君は、そのクアンチ省の、解放区とサイゴン政府地区の境界になっているタクハン川での、捕虜交換を取材して、『週刊朝日』に発表をしていた。
決して雄弁ではないが、泰造君の南ベトナムでの戦場の話は、私にとって、大変刺激的だった。いや話よりも、泰造君そのものから受ける刺激の方が強かった、と言った方が良いだろう。軍服を着てあの暑い戦場で、サイゴン軍の兵士たちと、従軍している様子が、目に浮かんでくるようだ。
泰造君の持ってきた銃弾で穴のあいたニコンを、みんなで驚きながら眺めた。秋元啓一は、早速そのカメラを『アサヒカメラ』の編集部に持って行って、「オイ、このカメラだけでも絵になるぞ」と説明をしていた》
「なぜフリーカメラマンはインドシナへ向かうのか」というテーマについて石川はつぎのように記している。
《アンコール・ワットのそばへ行きたい、という泰造君の気持ちは、それを撮影することによって、自分の存在感を自分自身で感じよう、としたのだと思う。そのことによって得られるかもしれない、収入や栄光や名声は、泰造君にとっては、手紙で書く程には問題にしていなかったのではないだろうか》
*
ポル・ポト政権下で大虐殺はなかった、という馬渕の説は、とてもわかりにくい。
〔あとがき〕に《米軍やベトナム軍の侵略に抵抗するのは当然のことだけれど、戦争からの復興という難事業やそれを通じて理想社会をつくる過程で、人を殺めることがあったとしたら、それは理想に反することになります》と記されているのはどういう意味なのか。
上述の『戦場カメラマン』(p.799〜p.872)で、石川はカンボジア大虐殺について記している。
前文として、本多勝一編『虐殺と報道』(すずさわ書店/1980年11月)に収められている、アンケートに対する返答を転載している。
1979年、1980年と2度にわたってカンボジアを訪問、数ヵ所の虐殺現場を取材したという石川は、大虐殺があったのは事実だと信じていて、《もし、大虐殺がなかったことが明らかにされた場合、私は現場へ行きながら、事実を見誤った責任をとって今後、報道にたずさわる仕事をやめる覚悟でいます》と。
*
馬渕直城は1975年4月17日のプノンペン解放を取材した唯一の日本人である。
ポル・ポトに2回会見している。
1回めは1979年12月で、2回めは1998年1月。
2回めのときポル・ポトの体調が悪化し、馬渕は十分な話が聞けなかった。
このときポル・ポトは、「ユオン(ベトナム人に対する蔑称)が来なければ我々の闘争は起きなかった」と語ったという。
4月15日早朝、タイ軍がポル・ポト死亡のニュースを流した。
「ポル・ポトの遺体確認後、写真を撮る著者」(1998年4月16日、地元タイ紙撮影)というキャプションの写真が掲載されている。
つぎの記述に馬渕の写真家としての生理を感じた。
(p.280)
《傷心いちじるしい妻や、十四歳の娘をカメラの放列にさらすのは無神経だと思ったが、長い髪の下から、キッとこちらを見つめる娘の眼に引かれて私も思わずシャッターを押した》
ポル・ポトの葬儀に立ち合った馬渕が描いている、孤独なポル・ポトの最期も印象的だが、わたしが本書に登場する人物のなかで最も強烈な印象を受けたのは、悲惨な死を遂げたセイニーである。(p.133〜p.141)
背負いきれない哀しみに自滅してゆく人間に、わたしは共感する。
ここでふと考えた。強靱な肉体と精神を併せもつ馬渕に、"弱さ"はないのだろうか。
靱い男が弱さを垣間見せたとき、意外と魅力的である。
ユージン・スミス(フォト・ジャーナリスト)は、「生まれかわる前は日本人だったのではないか」と、妻のアイリーンに語ったという。
馬渕直城は、前世ではクメール人だったにちがいない。
〔追記 2006/12/03〕
『噂の眞相』(1983年2月号)に共同通信・記者の石山氏と同期入社の伊藤正氏が記した、「カンボジアの戦場に消え去った共同通信特派員・石山幸基の軌跡」が掲載されているのを、ネットでの検索により知った。こちらの電子書店からダウンロードして、さきほど読了。じつに興味深い内容だ。
伊藤氏は石山氏の遺稿集『コンポンスプーに楽土を見た―戦場に消えた石山幸基記者の記録 』(石山幸基著/共同通信石山委員会編/三草社/1982年) の編集責任者である。
上記遺稿集をオンライン書店で注文したので、近日中に入手できるだろう。馬渕氏の『わたしが見たポル・ポト』を拝読して刺激された事柄について、遅ればせながら自分なりに考えてゆくための材料にしたい。
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この記事へのコメント
1. Posted by シャンティcoco 2007年01月03日 18:20
新年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。
シェム・リアップのアンコール・ワットやキリング・フィールドには、昨年の夏、観光旅行してきたので、実に興味深く読みました。地雷撤去に奮戦しているアキーラの存在も実に衝撃的でした。敵も味方もなくなる非情の戦線。死んだらオシマイという選択の余地のない世界では、正義なんてない…って気がしました。
自ら当時のカンボジアに駆り立てられた彼らと、遺跡が侵食されているから観なくちゃ!という私との、なんという相違でありましょうね。−z−
シェム・リアップのアンコール・ワットやキリング・フィールドには、昨年の夏、観光旅行してきたので、実に興味深く読みました。地雷撤去に奮戦しているアキーラの存在も実に衝撃的でした。敵も味方もなくなる非情の戦線。死んだらオシマイという選択の余地のない世界では、正義なんてない…って気がしました。
自ら当時のカンボジアに駆り立てられた彼らと、遺跡が侵食されているから観なくちゃ!という私との、なんという相違でありましょうね。−z−
2. Posted by miko 2007年01月08日 21:32
シャンティcocoさま
本年もよろしくお願いいたします。
昨年末に『コンポンスプーに楽土を見た―戦場に消えた石山幸基記者の記録 』についてエントリーするつもりでいたのですが、時間がとれませんでした。
1/7の夜、TBSの「夢の扉」という番組で、カンボジアの地雷撤去について放映していましたね。
またカンボジアの話を聴かせてくださいませ。
本年もよろしくお願いいたします。
昨年末に『コンポンスプーに楽土を見た―戦場に消えた石山幸基記者の記録 』についてエントリーするつもりでいたのですが、時間がとれませんでした。
1/7の夜、TBSの「夢の扉」という番組で、カンボジアの地雷撤去について放映していましたね。
またカンボジアの話を聴かせてくださいませ。
3. Posted by シャンティcoco 2007年01月12日 01:19
え!TBSでそんな番組が!?見そびれました!再放送に期待しよう。^^
4. Posted by 酒 2011年10月30日 21:49
今晩は、酒です。
私も、嘘つき脳たりんパー馬鹿カメラマンの馬渕直城のアホの嘘つき本を図書館読まして頂きました。まー酷くて読めたものなかったですね。反日左翼新聞の朝日新聞の元記者で反日ジャーナリストの本多勝一の妄言著書の「シナの旅」のカンボジア版を読んでいるようで不愉快な気分に襲われました。「ポル・ポト派の大虐殺はカンポジアを陥れようとするアメリカとベトナムの陰謀だ」という寝ぼけた妄言ぬかす馬渕は本当にバカとしか言いようがないすです。馬渕の取材した人物と、インタビョーをした場所はポル・ポトのイカレ野郎が都合の良く指名した人物と場所で行っているし、それに、馬渕のアホと結婚したバカカンボジア人のバカ女は、ポル・ポトによって都合洗脳されて育ったクズと結婚しているのですから、本当にバカとしか言いようがありません。嘘八百を並び立てる馬渕直城のアホの主張が通らない事祈ります。(ポル・ポト派の虐殺を否定する馬渕直城の主張は北朝鮮の日本人の拉致を否定するのと同じです)
私も、嘘つき脳たりんパー馬鹿カメラマンの馬渕直城のアホの嘘つき本を図書館読まして頂きました。まー酷くて読めたものなかったですね。反日左翼新聞の朝日新聞の元記者で反日ジャーナリストの本多勝一の妄言著書の「シナの旅」のカンボジア版を読んでいるようで不愉快な気分に襲われました。「ポル・ポト派の大虐殺はカンポジアを陥れようとするアメリカとベトナムの陰謀だ」という寝ぼけた妄言ぬかす馬渕は本当にバカとしか言いようがないすです。馬渕の取材した人物と、インタビョーをした場所はポル・ポトのイカレ野郎が都合の良く指名した人物と場所で行っているし、それに、馬渕のアホと結婚したバカカンボジア人のバカ女は、ポル・ポトによって都合洗脳されて育ったクズと結婚しているのですから、本当にバカとしか言いようがありません。嘘八百を並び立てる馬渕直城のアホの主張が通らない事祈ります。(ポル・ポト派の虐殺を否定する馬渕直城の主張は北朝鮮の日本人の拉致を否定するのと同じです)
5. Posted by miko 2011年10月31日 22:37
酒さま
コメントありがとうございます。
たしかにポル・ポト派の虐殺を否定する馬渕直城には、わたしも同意できません。
しかし酒さまの品性の感じられぬコメントには、それ以上に同意できません。
コメントありがとうございます。
たしかにポル・ポト派の虐殺を否定する馬渕直城には、わたしも同意できません。
しかし酒さまの品性の感じられぬコメントには、それ以上に同意できません。
6. Posted by 熊の出汁 2011年11月20日 01:43
今晩は、熊の出汁です。
私も、酒氏の先月、十月三十日に亡くなられた馬渕直城本人の批判の書き込みは、ただの誹謗中傷としか言い様のないくらい酷いと思いましたが、馬渕本人の著書を読んだら、確かに不愉快な気分に襲われましたし、もしかしたら、「馬渕本人はポル・ポト派に取材したのは、真っ赤な嘘で本当は取材なんかしていなんいじゃないのか?」とか「馬渕本人はポル・ポトに都合の良いよう買収されたか、もしくは、シンパのどっちかじゃないのか?」という疑い軽蔑しくなりました。馬渕直城本人が亡くなってしまったから、もはや、確認しようがありません。(それから、酒氏の言うとおり、「ポル・ポト派の大虐殺を否定する馬淵直城の主張は北朝鮮の日本人の拉致を否定していた論客達と同じである」言われ、この先ずっと批判され続けると思います)
私も、酒氏の先月、十月三十日に亡くなられた馬渕直城本人の批判の書き込みは、ただの誹謗中傷としか言い様のないくらい酷いと思いましたが、馬渕本人の著書を読んだら、確かに不愉快な気分に襲われましたし、もしかしたら、「馬渕本人はポル・ポト派に取材したのは、真っ赤な嘘で本当は取材なんかしていなんいじゃないのか?」とか「馬渕本人はポル・ポトに都合の良いよう買収されたか、もしくは、シンパのどっちかじゃないのか?」という疑い軽蔑しくなりました。馬渕直城本人が亡くなってしまったから、もはや、確認しようがありません。(それから、酒氏の言うとおり、「ポル・ポト派の大虐殺を否定する馬淵直城の主張は北朝鮮の日本人の拉致を否定していた論客達と同じである」言われ、この先ずっと批判され続けると思います)
7. Posted by miko 2011年11月21日 00:26
熊の出汁さま
コメントありがとうございます。
馬渕直城氏の急死には驚きました。
タイではなく日本の、それも千葉という土地で逝かれたことにひとつの感慨があります。
馬渕氏は本エントリーをアップしたころに閲覧されたらしく、ご自分のblogで紹介してくださいました。
ほとんど更新されていない馬渕氏のblogは、運営者なきあともネット上に存在しています。
もっと更新してほしかったのですが、blogが苦手だったのかもしれません。
ジン・ネット代表の高世仁氏のblogに、馬渕氏の通夜の模様が記されています。
通夜のあとの宴会で「馬渕さんはなぜポル・ポト派の虐殺を否定しようとしたのだろう」ということが議論されたそうです。
こちらを閲覧してみてください。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20111103
コメントありがとうございます。
馬渕直城氏の急死には驚きました。
タイではなく日本の、それも千葉という土地で逝かれたことにひとつの感慨があります。
馬渕氏は本エントリーをアップしたころに閲覧されたらしく、ご自分のblogで紹介してくださいました。
ほとんど更新されていない馬渕氏のblogは、運営者なきあともネット上に存在しています。
もっと更新してほしかったのですが、blogが苦手だったのかもしれません。
ジン・ネット代表の高世仁氏のblogに、馬渕氏の通夜の模様が記されています。
通夜のあとの宴会で「馬渕さんはなぜポル・ポト派の虐殺を否定しようとしたのだろう」ということが議論されたそうです。
こちらを閲覧してみてください。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20111103
8. Posted by 満月 2012年06月03日 20:59
今晩は、満月です。
去年十月三十日に死亡した。馬淵直城の著書を私も読ましていただきしました。あまりの馬鹿馬鹿しさに怒りを通り越して、呆れて途中で読むのを止めました。ポルポト派を異常なくらいに賞賛し、ポルポト派に都合の良い事しか移っていない写真と文章しか書いていないのを見れば、誰がどう見たてポルポトのシンパしかいいようがありませんし、ポルポト派が行った大量虐殺は「西側ジャーナリズム陰謀、もしくは、ペトナムのプロパガンダと言い、そして、映画「キリング・フィールド」で描かれてる事はは嘘八百のデマ」と主張してますが、実際ポルポト派は自国民を大量虐殺を行ったは事実であり、また、映画「キリング・フィールド」で描かれてる事は事実である事は証明されているのでは、ポルポト派が自国民の大量虐殺の国際世論の批判を免れ、長くカンボジア内戦が続いたのは、米中タイ3か国によるポルポト派支持があったからです。米ソ冷戦かのソ連封じ込め策の一環として、当時ソ連を後ろ盾にしていたペトナムにたいして危機感を持つ米中タイ3か国が反ペトナムの旗を掲げるポルポト派の方が自分たちにとって都合の良い存在である認識し、情報武器食料提供してポルポト派を支援していた真相であり、その事はフリージャーナリストの高山正之氏と山田寛氏がすでに署名しているにも関わらず、馬渕本人は、全く触れていないのをみれば、やっぱり、馬渕本人は筋金入りのポルポトのシンパとしか言いようがありません。
(長い書き込みと多少見苦しい部分あった事をお許し下さい。それから、高山正之氏と山田寛氏の著書を参考にして読んで見て下さい)
去年十月三十日に死亡した。馬淵直城の著書を私も読ましていただきしました。あまりの馬鹿馬鹿しさに怒りを通り越して、呆れて途中で読むのを止めました。ポルポト派を異常なくらいに賞賛し、ポルポト派に都合の良い事しか移っていない写真と文章しか書いていないのを見れば、誰がどう見たてポルポトのシンパしかいいようがありませんし、ポルポト派が行った大量虐殺は「西側ジャーナリズム陰謀、もしくは、ペトナムのプロパガンダと言い、そして、映画「キリング・フィールド」で描かれてる事はは嘘八百のデマ」と主張してますが、実際ポルポト派は自国民を大量虐殺を行ったは事実であり、また、映画「キリング・フィールド」で描かれてる事は事実である事は証明されているのでは、ポルポト派が自国民の大量虐殺の国際世論の批判を免れ、長くカンボジア内戦が続いたのは、米中タイ3か国によるポルポト派支持があったからです。米ソ冷戦かのソ連封じ込め策の一環として、当時ソ連を後ろ盾にしていたペトナムにたいして危機感を持つ米中タイ3か国が反ペトナムの旗を掲げるポルポト派の方が自分たちにとって都合の良い存在である認識し、情報武器食料提供してポルポト派を支援していた真相であり、その事はフリージャーナリストの高山正之氏と山田寛氏がすでに署名しているにも関わらず、馬渕本人は、全く触れていないのをみれば、やっぱり、馬渕本人は筋金入りのポルポトのシンパとしか言いようがありません。
(長い書き込みと多少見苦しい部分あった事をお許し下さい。それから、高山正之氏と山田寛氏の著書を参考にして読んで見て下さい)
9. Posted by miko 2012年06月04日 23:00
満月さま
コメントありがとうございます。
山田 寛著『ポル・ポト〈革命〉史』は読みました。
馬渕直城氏と親しいひとでも、馬渕氏の主張に違和感があるようです。
笹倉明の「週刊アッ!くん」というblogに、馬渕氏に関するエントリーがあります。
(1)〜(3)まであります。
追悼:伝説のカメラマン、馬渕直城逝く(1)
http://sasakurablog.blog16.fc2.com/blog-entry-1196.html
上記を読むと、虐殺はあっただろうけれど、真相については深い闇があると思います。
コメントありがとうございます。
山田 寛著『ポル・ポト〈革命〉史』は読みました。
馬渕直城氏と親しいひとでも、馬渕氏の主張に違和感があるようです。
笹倉明の「週刊アッ!くん」というblogに、馬渕氏に関するエントリーがあります。
(1)〜(3)まであります。
追悼:伝説のカメラマン、馬渕直城逝く(1)
http://sasakurablog.blog16.fc2.com/blog-entry-1196.html
上記を読むと、虐殺はあっただろうけれど、真相については深い闇があると思います。