2007年06月13日
富永太郎が書いた「惚れ証文」
「さきにアップした「中原中也と富永太郎展」で、父・謙治の日記に登場する「証文」について追記する。
そのためには人妻H・Sとの恋愛事件について記す必要がある。
※以下は、大岡昇平「富永太郎―書簡を通して見た生涯と作品」「面影」「『「問わずがたり』考」を参考にしている。
(以前に読んだ「問わずがたり」も、このたび読みかえしたが、フィクションなので混乱が生じるため引用できない)
1974年7月、大岡昇平は瑞雲寺現住職の叔母・ 花子さん(67歳)と会う。花子さんは先代住職の妹で、大正10年3月から5月まで(当時15歳)母親と一緒に、離れに下宿していた富永の世話をしていた。6月に北海道に嫁いだ花子さんが、その年の暮れに実家に帰ったとき、太郎はH・Sとの恋愛事件を起こして帰京していた。その事件は当時評判で、花子さんはH・Sの名も住む町も母親から聞いていた。
H・Sは「毎日のように」俥で太郎を訪ねて来て、山門の近くの杉の木立の中でよく立ち話をしているのを、寺の山門わきの別棟に住んでいたKさんは見ている。Kさんは花子さんの従姉妹。
大岡が花子さんに会ったとき、花子さんは仙台に帰って、瑞雲寺近くの町に住んでいた。
1974年10月、大岡昇平は『富永太郎全集』(註・大岡の死により未刊)の共同編集者・吉田熈生とともにH・Sに会う。80歳にしては元気だったが、かなり耳が遠くなっていて、怒鳴り合うように話したという。
Sが開業していた医院は、親類が継いでいた。
大岡はそのときの話を短篇小説「問わずがたり」として発表(『新潮』1975年1月号)。これはフィクションだが、「富永太郎伝」を書いた大岡にとって、伝記の訂正に不都合が生じたため、事実とフィクションの関係、フィクションの根拠、その理由と経過を述べるために「『「問わずがたり』考」を発表(『群像』1976年1月号)。
それに先立つ1974年9月、大岡は『富永太郎―書簡を通じて見た生涯と作品』(中央公論社)を刊行。1974年11月21日、朝日新聞夕刊に「面影」―富永太郎伝への追加―を発表。
大岡は、太郎に「証文」を書かせたのはH女の母親だと推察している。「肉体の関係はないけれど、心から愛している。離婚されれば結婚する」というような文面で、太郎が二高を退学して仙台を去らないなら、この証文を学校へ提出するという。
当時は姦通罪のある時代で、太郎の両親は、それほど気に入っているのなら、S家がH女を離婚するなら、嫁に貰い受けようとしていた。
このあたりの事情は、大岡が聞いた太郎の弟・次郎と妹・百合子の証言に相違がみられ、不透明だ。
父・謙治は太郎の伝記を記そうとしていた大岡に協力的だったというが、H・Sについては語らなかったのだろうか。
いうまでもなく太郎の両親にとって、きわめて不愉快な事件だった。
*
ここで太郎の「不幸な恋愛」についてまとめてみよう。
大正10年5月末から6月にかけて、太郎は正岡忠三郎とともに蔵王山麓温泉地、青根温泉に遊ぶ。東北本線白河から軽便鉄道があり、二高生がよく行った。旅館の娘「やっちゃん」に太郎は興味を示した。
7月暑中休暇、忠三郎は15日帰京、太郎は再び青根に遊び、「宿命の女」H・Sに出逢う。
瑞雲寺で太郎の世話をしていた花子さんは、5月に北海道野付牛勤務の鉄道吏員に嫁いだ。そこへ太郎は、夏休みに行くという葉書を出した。旅費を請求したら、母・園子に、新婚の家へお嫁さんの知合いの若い男が訪れるものではない、と叱られ、青根温泉に行ったのだった。
花子さんは大岡に、「あの時、北海道へ来ていたら、あんなことにならなかったでしょうに」といった。
H・Sの夫(開業医)は喘息持ちで、それに効くというので、毎夏一家で青根温泉に行った。
仙台に帰ったあとS家に遊びにきた太郎は、陸軍将校(Sの妹の夫で、砲兵大尉、当時東北帝大理工学部へ委託留学中)に「フランス語を教えてやろう」といわれ、通いはじめる。
そのうちに太郎が写生の帰りに寄ったり、H・Sが瑞雲寺を訪れて、山門傍の杉林で立ち話をするようになる。
太郎の母方の叔父・丹羽瀬基が、Sの義弟・陸軍将校の士官学校同期生で、当時名古屋第三師団勤務(歩兵第六連隊中隊長)だった。そこへ義弟からH・Sと太郎の関係について、警告の手紙が行った。ふたりが町を散歩する姿が将校の目に留まり、騒ぎ立てたので、事件が大きくなったらしい。
丹羽瀬基は、上述のような同期生のとった処置について憤慨していたという。
11月5日、忠三郎に東京外国語学校受験を告げ、帰京。H・Sの家に近い瑞雲寺の下宿を即座に引き払うことを命じられたらしい。8日、仙台に帰り、その日のうちに米ヶ袋広丁一四 三浦方に転居。忠三郎は、引っ越しの手伝いをしている。
太郎とH・Sの事件が起きたころ、子どものできなかったH・Sは、3週間ばかり実家に帰されていた。「3年子無きは去る」といわれた時代であり、その前年、父親が死に、家業は傾いていたらしい。太郎の同情ぶりからして、一家が路頭に迷うほどだったのかもしれない。
H・Sの郷里は仙台の南方の郡部で、市役所役人の引きで仙台に出て乾物屋を開き、市役所へその納入を引き受けて経営していたという。
*
大正10年(1921)12月2日夜、太郎は母・園子にH女のことで来仙を依頼する手紙を書く。学校を変えさせてほしいというお願いも含めて。
つぎのように追記している。
《Sさんの奥さんのことゝ書いたので、私に御会ひになるまでは、いつかのご心配の様子では「法律上の罪人」などといふことまでも想像なさるかもしれませんが、そんなことは絶対にないのですから御安心の為書きそへておきます》
●9日、太郎の母・園子は単身来仙し、H・Sとその母親に会ったらしい。H・Sはこのとき実家に帰されていたはずだから、園子はそこを訪問したのだろうか。H・Sは太郎との恋愛関係を否定。このとき太郎はホテルで待機していた。
●10日、園子は太郎と共に帰京。父・謙治の説得にかかった。
●12日、両親は太郎を伴って、再び仙台へ赴き、S夫妻と面会。
●13日、父・謙治の日記によると(大岡もみていない)S夫妻が訪問してきて、H女は前言を翻し、太郎との恋愛関係を認めた。そしてSは、「証文」を火中に投じた。これはH女とは離縁しないという意味なのだろう。
●14日夜、仙台を決定的に離れ、翌15日朝、帰京。
●15日午前11時20分、帰京してすぐに、太郎は仙台の忠三郎宛ての手紙を書きおえる。
12月2日から15日という短期間のうちに事を運ぶ必要があるほど、事態は切迫していた。
この年の手帖に「私は久しく日記をつけるのを怠っていた。それほど混乱した日が続いたのだ」という句があるらしい。太郎は日記を残していない。それが保存されていたら貴重な資料になっただろう。
大正10年(1921)からはじまる正岡忠三郎の日記の12月13日、《晩仙台ホテルへTの家族を尋ね、Tと町へ出てあるく》とある。
(「中原中也と富永太郎展」図録より引用)
おそらく太郎はあるきながら忠三郎に事の顛末を語ったのだろう。
二高入学以来絶命するまで、常に太郎に伴走していたのが忠三郎である。
太郎の終焉を忠三郎は記録している。貴重な資料である。
臨終の床で、つききりで看病する忠三郎にワガママをいう太郎を受け入れる姿はほほえましい。
*
ここからは私見である。
H・Sの結婚自体が家と家の関係により成立したもので、開業医の跡とりを生むこともなく、実家の経済状態が悪化したH・Sを、当のSよりも、Sの妹と、その夫が許さなかったのではないだろうか。
太郎が二高を中退し帰京したあと、H・Sは夫の家にもどっている。
もし太郎との恋愛事件がなければ、H・Sは離縁されていたのだろうか。
H・Sが、夫のもとにもどる道を選択しなければ、実家に居場所のないH・Sは、途方に暮れる。
太郎は20歳で、生活力に欠ける。
不妊の理由がH・Sにではなく夫にある可能性があるとしても、当時は女のせいにされていただろう。
負い目のあるH・Sは、たとえ太郎の両親が承諾したとしても、富永家に入ることには無理がある。妙にプライドの高い(わたしにはそう感じられる)H・Sには、マイナス面が多すぎる。また東京で暮らせば、仙台の母親をカバーすることはできない。
短篇「問わずがたり」では、H・Sには弟がいたことになっている。大岡はH・Sの戸籍を調べて、父親の死亡を確認している。弟がいるというのはフィクションだろうか。
H・Sは太郎に、自分と母親の窮状を訴えたのだろう。太郎はふたりにいたく同情している。
12月17日付けの正岡宛書簡に、太郎は「馬鹿な男だと思つて、河北新報の三面には毎日眼を通してくれる様に頼む」と記し、たまたま道で会った後藤吉之助(一中時代の同級生)に、「渋谷川に身投げ女が浮かんだら知らせてくれ」と頼んだという。これは絶望したH・Sが追ってきて、太郎の家の近くの渋谷川に身を投げるかもしれないとの危惧があったからだろう。
しかしそのころH・Sは、夫のもとに帰っていたのである。
Sが妻を離縁しなかった理由が判然としないが、太郎との事件がなければ離縁していたのだろうか。太郎との仲がうわさになったのが実家へ帰されたきっかけのようだが、大正2年に盛大な婚礼が行われたあと、太郎との恋愛事件が起きる大正10年まで、子どもができなかった。これが伏線になっていたのはまちがいないだろう。開業医のSには、跡継ぎが必要だっただろうから。
SやH女の側からの資料がでてきたら、べつの視点から眺めることができるだろう。
このたびの「中原中也と富永太郎展」にも展示されていた油彩「火葬場」(1922年/大正11)は、太郎が下宿していた瑞雲寺の裏にあり、H・Sとのあいだに心中話がでた可能性がある。
太郎の家族は油彩「火葬場」をみて、気味が悪いと感じたらしい。が、心中話は連想しなかっただろう。
太郎はH・Sと別れたあと、仙台を訪れてこれを描いたらしい。
そのことでなにかを超越したかったのだろうか。
だとしたら、油彩「火葬場」は象徴的な画になる。
また散文詩「秋の悲歎」(1924年/大正13)の「私たちは煙になつてしまつたのだろうか」という一節は、心中を暗示しているのではないか。
大岡昇平の「富永太郎伝」を読む限り、太郎と両親が精一杯の誠意を見せているのに対し、H・Sとその周辺の人物たちにはそれが感じられない。
偽りの自己を生きることで、H・Sはその生をまっとうしたようにみえる。
というより、太郎と燃えあがった2ヵ月が、H・Sにとって例外的な時間だったのかもしれない。
80歳のH・Sは、大岡たちに会うことをどんな想いで承諾したのだろう。
仙台市宮城学院の蒲生芳郎氏のとりなしで会うことができたそうだが。
大岡の「何かあなたとのうわさが立って、二高を中退しなければならなくなった、といわれていますが、いかがですか」という問いに、笑って「いやですよ。こんなお婆さんにそんな話」といったH・Sを、わたしはどうしても受け入れられない。
こんなつまらない女性に、太郎は死ぬまで苦しめられたのか……。
来仙した太郎の母親に、「お友達としてつきあっていました」とつっぱねた28歳のH・Sが甦るのである。
太郎がH女との失恋によって死ぬまで苦しんだのは、この落差だったのではないか。
そんな想いで散文詩「影絵」を読むと、身に沁みるのである。
*
富永太郎の無二の友・正岡忠三郎は、加藤拓川の三男として東京に生まれ、12歳のとき、正岡子規の妹・律の養子になった。子規は父方の従兄弟に当たる。正岡子規に思い入れの強い司馬遼太郎は、『ひとびとの跫音』で正岡忠三郎について記し、そこに富永太郎の書簡も登場する。
司馬は忠三郎の葬儀で、葬儀委員長を務めた。
忠三郎の家族にとって、司馬は別格の存在だったらしい。
司馬遼太郎は『ある運命について』(中公文庫/昭和62年)で、恋愛を定義している。その箇所を引く。
《恋愛というものを古典的に定義すれば、両性がたがいのなかにもっとも理想的な異性を見出し、性交という形而下的行為を介在させることなく――たとえなにかのはずみでその行為があったとしても――その次元に双方の格調をひきさげることなく欲情をそれなりの芸術的戒律まで高めつづける双方の精神の作用をいう、とでもいうほかない》
富永太郎が苦しめられたのは、「立ち去ったマリア」の残像である。
神経衰弱に悩まされ、血を吐くような想いで、H・Sとの失恋を詩篇や画に結実させた。失恋を芸術作品を生みだすことで昇華させた。
恋愛にも才能がいるが、失恋にはそれ以上の才能が求められるのだということを、わたしは富永太郎から教えられたのである。
太郎の父・謙治は、大岡に「失恋というものは、ひどいものですなあ」とつくづく述懐したという。
大正10年10月10日付け正岡宛の書簡で、太郎は帰京していた忠三郎に「どうか自分をごまかさない様に」と書きそえている。忠三郎は当時、東京の加藤家の隣家の令嬢に夢中だった。
この太郎の肉筆をこのたびの「中原中也と富永太郎展」で観たとき、わたしは脳裡に刻みつけた。
自分をごまかさない生き方を貫いた富永太郎は、最期まで失恋の傷みから解放されなかった。
早々と現世を立ち去った富永太郎は、「人工天國」の住人になっているのだろうか。
そのためには人妻H・Sとの恋愛事件について記す必要がある。
※以下は、大岡昇平「富永太郎―書簡を通して見た生涯と作品」「面影」「『「問わずがたり』考」を参考にしている。
(以前に読んだ「問わずがたり」も、このたび読みかえしたが、フィクションなので混乱が生じるため引用できない)
1974年7月、大岡昇平は瑞雲寺現住職の叔母・ 花子さん(67歳)と会う。花子さんは先代住職の妹で、大正10年3月から5月まで(当時15歳)母親と一緒に、離れに下宿していた富永の世話をしていた。6月に北海道に嫁いだ花子さんが、その年の暮れに実家に帰ったとき、太郎はH・Sとの恋愛事件を起こして帰京していた。その事件は当時評判で、花子さんはH・Sの名も住む町も母親から聞いていた。
H・Sは「毎日のように」俥で太郎を訪ねて来て、山門の近くの杉の木立の中でよく立ち話をしているのを、寺の山門わきの別棟に住んでいたKさんは見ている。Kさんは花子さんの従姉妹。
大岡が花子さんに会ったとき、花子さんは仙台に帰って、瑞雲寺近くの町に住んでいた。
1974年10月、大岡昇平は『富永太郎全集』(註・大岡の死により未刊)の共同編集者・吉田熈生とともにH・Sに会う。80歳にしては元気だったが、かなり耳が遠くなっていて、怒鳴り合うように話したという。
Sが開業していた医院は、親類が継いでいた。
大岡はそのときの話を短篇小説「問わずがたり」として発表(『新潮』1975年1月号)。これはフィクションだが、「富永太郎伝」を書いた大岡にとって、伝記の訂正に不都合が生じたため、事実とフィクションの関係、フィクションの根拠、その理由と経過を述べるために「『「問わずがたり』考」を発表(『群像』1976年1月号)。
それに先立つ1974年9月、大岡は『富永太郎―書簡を通じて見た生涯と作品』(中央公論社)を刊行。1974年11月21日、朝日新聞夕刊に「面影」―富永太郎伝への追加―を発表。
大岡は、太郎に「証文」を書かせたのはH女の母親だと推察している。「肉体の関係はないけれど、心から愛している。離婚されれば結婚する」というような文面で、太郎が二高を退学して仙台を去らないなら、この証文を学校へ提出するという。
当時は姦通罪のある時代で、太郎の両親は、それほど気に入っているのなら、S家がH女を離婚するなら、嫁に貰い受けようとしていた。
このあたりの事情は、大岡が聞いた太郎の弟・次郎と妹・百合子の証言に相違がみられ、不透明だ。
父・謙治は太郎の伝記を記そうとしていた大岡に協力的だったというが、H・Sについては語らなかったのだろうか。
いうまでもなく太郎の両親にとって、きわめて不愉快な事件だった。
*
ここで太郎の「不幸な恋愛」についてまとめてみよう。
大正10年5月末から6月にかけて、太郎は正岡忠三郎とともに蔵王山麓温泉地、青根温泉に遊ぶ。東北本線白河から軽便鉄道があり、二高生がよく行った。旅館の娘「やっちゃん」に太郎は興味を示した。
7月暑中休暇、忠三郎は15日帰京、太郎は再び青根に遊び、「宿命の女」H・Sに出逢う。
瑞雲寺で太郎の世話をしていた花子さんは、5月に北海道野付牛勤務の鉄道吏員に嫁いだ。そこへ太郎は、夏休みに行くという葉書を出した。旅費を請求したら、母・園子に、新婚の家へお嫁さんの知合いの若い男が訪れるものではない、と叱られ、青根温泉に行ったのだった。
花子さんは大岡に、「あの時、北海道へ来ていたら、あんなことにならなかったでしょうに」といった。
H・Sの夫(開業医)は喘息持ちで、それに効くというので、毎夏一家で青根温泉に行った。
仙台に帰ったあとS家に遊びにきた太郎は、陸軍将校(Sの妹の夫で、砲兵大尉、当時東北帝大理工学部へ委託留学中)に「フランス語を教えてやろう」といわれ、通いはじめる。
そのうちに太郎が写生の帰りに寄ったり、H・Sが瑞雲寺を訪れて、山門傍の杉林で立ち話をするようになる。
太郎の母方の叔父・丹羽瀬基が、Sの義弟・陸軍将校の士官学校同期生で、当時名古屋第三師団勤務(歩兵第六連隊中隊長)だった。そこへ義弟からH・Sと太郎の関係について、警告の手紙が行った。ふたりが町を散歩する姿が将校の目に留まり、騒ぎ立てたので、事件が大きくなったらしい。
丹羽瀬基は、上述のような同期生のとった処置について憤慨していたという。
11月5日、忠三郎に東京外国語学校受験を告げ、帰京。H・Sの家に近い瑞雲寺の下宿を即座に引き払うことを命じられたらしい。8日、仙台に帰り、その日のうちに米ヶ袋広丁一四 三浦方に転居。忠三郎は、引っ越しの手伝いをしている。
太郎とH・Sの事件が起きたころ、子どものできなかったH・Sは、3週間ばかり実家に帰されていた。「3年子無きは去る」といわれた時代であり、その前年、父親が死に、家業は傾いていたらしい。太郎の同情ぶりからして、一家が路頭に迷うほどだったのかもしれない。
H・Sの郷里は仙台の南方の郡部で、市役所役人の引きで仙台に出て乾物屋を開き、市役所へその納入を引き受けて経営していたという。
*
大正10年(1921)12月2日夜、太郎は母・園子にH女のことで来仙を依頼する手紙を書く。学校を変えさせてほしいというお願いも含めて。
つぎのように追記している。
《Sさんの奥さんのことゝ書いたので、私に御会ひになるまでは、いつかのご心配の様子では「法律上の罪人」などといふことまでも想像なさるかもしれませんが、そんなことは絶対にないのですから御安心の為書きそへておきます》
●9日、太郎の母・園子は単身来仙し、H・Sとその母親に会ったらしい。H・Sはこのとき実家に帰されていたはずだから、園子はそこを訪問したのだろうか。H・Sは太郎との恋愛関係を否定。このとき太郎はホテルで待機していた。
●10日、園子は太郎と共に帰京。父・謙治の説得にかかった。
●12日、両親は太郎を伴って、再び仙台へ赴き、S夫妻と面会。
●13日、父・謙治の日記によると(大岡もみていない)S夫妻が訪問してきて、H女は前言を翻し、太郎との恋愛関係を認めた。そしてSは、「証文」を火中に投じた。これはH女とは離縁しないという意味なのだろう。
●14日夜、仙台を決定的に離れ、翌15日朝、帰京。
●15日午前11時20分、帰京してすぐに、太郎は仙台の忠三郎宛ての手紙を書きおえる。
12月2日から15日という短期間のうちに事を運ぶ必要があるほど、事態は切迫していた。
この年の手帖に「私は久しく日記をつけるのを怠っていた。それほど混乱した日が続いたのだ」という句があるらしい。太郎は日記を残していない。それが保存されていたら貴重な資料になっただろう。
大正10年(1921)からはじまる正岡忠三郎の日記の12月13日、《晩仙台ホテルへTの家族を尋ね、Tと町へ出てあるく》とある。
(「中原中也と富永太郎展」図録より引用)
おそらく太郎はあるきながら忠三郎に事の顛末を語ったのだろう。
二高入学以来絶命するまで、常に太郎に伴走していたのが忠三郎である。
太郎の終焉を忠三郎は記録している。貴重な資料である。
臨終の床で、つききりで看病する忠三郎にワガママをいう太郎を受け入れる姿はほほえましい。
*
ここからは私見である。
H・Sの結婚自体が家と家の関係により成立したもので、開業医の跡とりを生むこともなく、実家の経済状態が悪化したH・Sを、当のSよりも、Sの妹と、その夫が許さなかったのではないだろうか。
太郎が二高を中退し帰京したあと、H・Sは夫の家にもどっている。
もし太郎との恋愛事件がなければ、H・Sは離縁されていたのだろうか。
H・Sが、夫のもとにもどる道を選択しなければ、実家に居場所のないH・Sは、途方に暮れる。
太郎は20歳で、生活力に欠ける。
不妊の理由がH・Sにではなく夫にある可能性があるとしても、当時は女のせいにされていただろう。
負い目のあるH・Sは、たとえ太郎の両親が承諾したとしても、富永家に入ることには無理がある。妙にプライドの高い(わたしにはそう感じられる)H・Sには、マイナス面が多すぎる。また東京で暮らせば、仙台の母親をカバーすることはできない。
短篇「問わずがたり」では、H・Sには弟がいたことになっている。大岡はH・Sの戸籍を調べて、父親の死亡を確認している。弟がいるというのはフィクションだろうか。
H・Sは太郎に、自分と母親の窮状を訴えたのだろう。太郎はふたりにいたく同情している。
12月17日付けの正岡宛書簡に、太郎は「馬鹿な男だと思つて、河北新報の三面には毎日眼を通してくれる様に頼む」と記し、たまたま道で会った後藤吉之助(一中時代の同級生)に、「渋谷川に身投げ女が浮かんだら知らせてくれ」と頼んだという。これは絶望したH・Sが追ってきて、太郎の家の近くの渋谷川に身を投げるかもしれないとの危惧があったからだろう。
しかしそのころH・Sは、夫のもとに帰っていたのである。
Sが妻を離縁しなかった理由が判然としないが、太郎との事件がなければ離縁していたのだろうか。太郎との仲がうわさになったのが実家へ帰されたきっかけのようだが、大正2年に盛大な婚礼が行われたあと、太郎との恋愛事件が起きる大正10年まで、子どもができなかった。これが伏線になっていたのはまちがいないだろう。開業医のSには、跡継ぎが必要だっただろうから。
SやH女の側からの資料がでてきたら、べつの視点から眺めることができるだろう。
このたびの「中原中也と富永太郎展」にも展示されていた油彩「火葬場」(1922年/大正11)は、太郎が下宿していた瑞雲寺の裏にあり、H・Sとのあいだに心中話がでた可能性がある。
太郎の家族は油彩「火葬場」をみて、気味が悪いと感じたらしい。が、心中話は連想しなかっただろう。
太郎はH・Sと別れたあと、仙台を訪れてこれを描いたらしい。
そのことでなにかを超越したかったのだろうか。
だとしたら、油彩「火葬場」は象徴的な画になる。
また散文詩「秋の悲歎」(1924年/大正13)の「私たちは煙になつてしまつたのだろうか」という一節は、心中を暗示しているのではないか。
大岡昇平の「富永太郎伝」を読む限り、太郎と両親が精一杯の誠意を見せているのに対し、H・Sとその周辺の人物たちにはそれが感じられない。
偽りの自己を生きることで、H・Sはその生をまっとうしたようにみえる。
というより、太郎と燃えあがった2ヵ月が、H・Sにとって例外的な時間だったのかもしれない。
80歳のH・Sは、大岡たちに会うことをどんな想いで承諾したのだろう。
仙台市宮城学院の蒲生芳郎氏のとりなしで会うことができたそうだが。
大岡の「何かあなたとのうわさが立って、二高を中退しなければならなくなった、といわれていますが、いかがですか」という問いに、笑って「いやですよ。こんなお婆さんにそんな話」といったH・Sを、わたしはどうしても受け入れられない。
こんなつまらない女性に、太郎は死ぬまで苦しめられたのか……。
来仙した太郎の母親に、「お友達としてつきあっていました」とつっぱねた28歳のH・Sが甦るのである。
太郎がH女との失恋によって死ぬまで苦しんだのは、この落差だったのではないか。
そんな想いで散文詩「影絵」を読むと、身に沁みるのである。
*
富永太郎の無二の友・正岡忠三郎は、加藤拓川の三男として東京に生まれ、12歳のとき、正岡子規の妹・律の養子になった。子規は父方の従兄弟に当たる。正岡子規に思い入れの強い司馬遼太郎は、『ひとびとの跫音』で正岡忠三郎について記し、そこに富永太郎の書簡も登場する。
司馬は忠三郎の葬儀で、葬儀委員長を務めた。
忠三郎の家族にとって、司馬は別格の存在だったらしい。
司馬遼太郎は『ある運命について』(中公文庫/昭和62年)で、恋愛を定義している。その箇所を引く。
《恋愛というものを古典的に定義すれば、両性がたがいのなかにもっとも理想的な異性を見出し、性交という形而下的行為を介在させることなく――たとえなにかのはずみでその行為があったとしても――その次元に双方の格調をひきさげることなく欲情をそれなりの芸術的戒律まで高めつづける双方の精神の作用をいう、とでもいうほかない》
富永太郎が苦しめられたのは、「立ち去ったマリア」の残像である。
神経衰弱に悩まされ、血を吐くような想いで、H・Sとの失恋を詩篇や画に結実させた。失恋を芸術作品を生みだすことで昇華させた。
恋愛にも才能がいるが、失恋にはそれ以上の才能が求められるのだということを、わたしは富永太郎から教えられたのである。
太郎の父・謙治は、大岡に「失恋というものは、ひどいものですなあ」とつくづく述懐したという。
大正10年10月10日付け正岡宛の書簡で、太郎は帰京していた忠三郎に「どうか自分をごまかさない様に」と書きそえている。忠三郎は当時、東京の加藤家の隣家の令嬢に夢中だった。
この太郎の肉筆をこのたびの「中原中也と富永太郎展」で観たとき、わたしは脳裡に刻みつけた。
自分をごまかさない生き方を貫いた富永太郎は、最期まで失恋の傷みから解放されなかった。
早々と現世を立ち去った富永太郎は、「人工天國」の住人になっているのだろうか。
miko3355 at 15:42│TrackBack(0)│富永太郎
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この記事へのコメント
1. Posted by 小向 2007年06月15日 11:35
よくぞまとめてくださいましたとお礼を言うしかないです。太郎とH・Sの関係についての現在最も充実した資料になると思います。
今回、太郎の父の日記によってH・Sが前言を翻したことを知り、太郎は本当に失恋したのだろうかと疑問に思いました。太郎と彼女が好き合っていたのが真実だとすれば太郎はそう不幸ではない、彼女もけっして悪い女ではない、そのように印象が変わってきました。
また、あらためて僕が強く感じ出してきたのが、太郎の生殖というものに対する特別な感情です。いろいろなところに生殖に対する嫌悪にも似た感情を表す言葉を残しています。「石女(うまずめ)」という言い方などは、子供が出来なかったH・Sにだからこそ愛しさを募らせたため出てきた言葉ではないかと思います。
今回、太郎の父の日記によってH・Sが前言を翻したことを知り、太郎は本当に失恋したのだろうかと疑問に思いました。太郎と彼女が好き合っていたのが真実だとすれば太郎はそう不幸ではない、彼女もけっして悪い女ではない、そのように印象が変わってきました。
また、あらためて僕が強く感じ出してきたのが、太郎の生殖というものに対する特別な感情です。いろいろなところに生殖に対する嫌悪にも似た感情を表す言葉を残しています。「石女(うまずめ)」という言い方などは、子供が出来なかったH・Sにだからこそ愛しさを募らせたため出てきた言葉ではないかと思います。
2. Posted by miko 2007年06月15日 19:46
大岡昇平の著書からの引用にすぎませんが、自分なりにまとめるのに時間がかかりました。あらためて大岡の遺業に感心しました。
かつて小向さんと「小林秀雄實記」の掲示板でやりとりした内容も甦りました。あれより少しは考えが進んだのではないかと。
ご指摘の生殖に対する嫌悪は詩篇「橋の上の自画像」にもあらわれていますね。
富永太郎の思想の根底にあったのは「いずこなりとこの世の外へ」だと思います。
惚れっぽい太郎はH・S以外にも好きになった女性はいます。病状が進んでから、はじめて齢下の女性にプロポーズしていますね。
大岡もみていない謙治の日記は、図録では紹介されていません。残念です。
かつて小向さんと「小林秀雄實記」の掲示板でやりとりした内容も甦りました。あれより少しは考えが進んだのではないかと。
ご指摘の生殖に対する嫌悪は詩篇「橋の上の自画像」にもあらわれていますね。
富永太郎の思想の根底にあったのは「いずこなりとこの世の外へ」だと思います。
惚れっぽい太郎はH・S以外にも好きになった女性はいます。病状が進んでから、はじめて齢下の女性にプロポーズしていますね。
大岡もみていない謙治の日記は、図録では紹介されていません。残念です。
3. Posted by 小向 2007年06月19日 15:43
ANYWHERE OUT OF THE WORLDですね。
大人に成りきれなかった太郎という見方もできますが、どんな大人にも太郎と同じくこの世に誕生したことへの疑問はあるはずですから、太郎の厭世的な傾向はむしろ純粋な感覚であると僕は評価しています。太郎のことを思えば思うほど大切な人であったと今回のmikoさんのおかげでますます好きになりました。
大人に成りきれなかった太郎という見方もできますが、どんな大人にも太郎と同じくこの世に誕生したことへの疑問はあるはずですから、太郎の厭世的な傾向はむしろ純粋な感覚であると僕は評価しています。太郎のことを思えば思うほど大切な人であったと今回のmikoさんのおかげでますます好きになりました。
4. Posted by miko 2007年06月19日 17:56
小向さま
小向さんは中原中也もお好きですから、このたびの特別展をごらんになれば、わたしよりも得るところが多いと思います。
太郎の遺髪は、ぜひごらんいただきたかったです。とても小さな箱に円形状に収められていて、艶があり、わりと細い黒髪でした。
思わず見入ってしまいました。
死に顔と同様、遺髪もうつくしかったです。
太郎にとって、忠三郎の存在は大きかったですね。
小向さんは中原中也もお好きですから、このたびの特別展をごらんになれば、わたしよりも得るところが多いと思います。
太郎の遺髪は、ぜひごらんいただきたかったです。とても小さな箱に円形状に収められていて、艶があり、わりと細い黒髪でした。
思わず見入ってしまいました。
死に顔と同様、遺髪もうつくしかったです。
太郎にとって、忠三郎の存在は大きかったですね。