2007年09月17日

ニッポン人・脈・記「テレビの情熱」

朝日新聞・夕刊に連載された、ニッポン人・脈・記「テレビの情熱」を興味深く読んだ。
全12回、2007年8月8日〜8月24日。

8/08  「あなたの貧乏撮らせて」  
8/09  広島へ何しに? 答え求め
8/10  北国 高3 目凝らし1年
8/13  戦争の証言 背負う覚悟
8/14  大多ドラマ、時代をタイホ
8/15  アルバムの裏 妻の孤独
8/16  アポなし 突撃 眉毛切り
8/17  関西発の「必殺」・お笑い
8/21  伝えるのは自分の言葉
8/22  タブー破り 「やばい企画」
8/23  キー局覆す独立の意気
8/24  怪物の卵はどう育った?

担当  編集委員・川本裕司/写真・フリーの水村孝】

シリーズトップの?で、NHKスペシャル「ワーキングプア」のチーフプロデューサー・春原雄索(すのはらゆうさく・41歳)と、NNNドキュメント「ネットカフェ難民」の日本テレビのディレクター・水島宏明(みずしまひろあき・49歳)が紹介されているところに、いまの時代性があらわれている。

?では、68年のTBS闘争を経て、TBSを退職した13人を含む25人が70年に設立した制作会社テレビマンユニオンが紹介されている。
代表取締役会長・CEO/重延浩(しげのぶゆたか・65歳)の「受注する制作費が25年前より低い。テレビ局との関係から言いにくいのですが、事実です」という発言は、テレビ局の下請けではない会社を目指してきたテレビマンユニオンであるだけに、なおさら重い。

つぎの一節は気になる。

《活路を探り90年代半ば、通信衛星のデジタル放送で自らのチャンネルを持とうと乗り出した制作会社があった。しかし、契約数が目標に及ばず、社長は自己破産し放送界から姿を消した。「対等なパートナーに」という制作会社の長年の訴えは、なお目標のままだ》

関連があるので、河内孝著『新聞社 破綻したビジネスモデル』(新潮新書/2007年)から引く。

《『週間東洋経済』(〇六年一〇月七日号)の「当世時給番付」によると、フジテレビは七五八二円で第三位。一方、テレビ制作プロダクションは二〇〇〇円以下。もし、規制が緩和され、文字通りの「多チャンネル時代」が到来して、何百とある下請プロダクションが、それぞれ特徴を持ったテレビ局になったら――これが、独占的な国家免許で利益をむさぼっているテレビ経営者達の最悪のシナリオなのです。(ちなみに下請プロダクションの実態を調べた公取調査も、全マスコミが黙殺しました)》

本blogに2005年11月03日「テレビ制作会社について考える 」をアップしてからも、自分なりに考えつづけてきた。
「ワーキングプア」を報じるTV局が、制作会社の「ワーキングプア」によって支えられているというのは皮肉だ。
「経費削減のために番組制作を外注する」という局の発想自体が、まことに寒い。
受信料で経営しているNHKが、委託先の制作会社に正当な報酬を払わず、民業を圧迫しているのは解せない。いまのNHKの番組制作委託率を知らないが、公表しているのだろうか。
いずれにしてもインターネットの普及により、新聞社と同じくTV局も安穏としていられない時代が到来しそうだ。

  *

このシリーズで最も印象に残ったのは、ラストの?に登場する岡本愛彦(おかもとよしひこ・2004年79歳で歿)である。
《外部の圧力に屈したテレビ界に絶望した》岡本は、《2年連続で芸術祭賞を受けながら63年、TBSを退社する》
TBSドラマ「私は貝になりたい」(58年)についてはあまりにも有名なので知っていたが、制作した岡本愛彦について、わたしはまったく知らなかった。岡本は生前、「あのとき戦争責任を追及できなかったら、一生できないと思った。このドラマを作れればテレビをやめてもいい、と命がけだった」と語っていたという。

《TBSで最後のドラマの演出助手をつとめた村木良彦(71)に退社後、ふと打ち明けた。「『貝になりたい』について、若い頃からの在日韓国人の友人から『加害者としての日本人像がなく、アジアの民衆の視点が欠落している』と言われてショックだった」
 岡本は多額の借金を背負い、在日韓国人政治犯の記録映画を製作した》

村木良彦は上記のテレビマンユニオン設立メンバーのひとり。1984年、代表取締役社長を辞し、非常勤の取締役へ。朝日新聞社の川本氏から取材を受けたことが、「村木良彦ブログ」に記されている。

亡くなる3年前の01年に岡本が語ったという一節が、いまもわたしのこころに突きささっている。

テレビは人間の歴史の中で、毒にも薬にもならないものになってしまった

折しも2007/08/24、「終戦記念特別ドラマ」として【真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎「私は貝になりたい」】(日本テレビ)が放映された。
わたしも観たが、あまり感銘を受けなかった。夫婦愛、家族愛が軸になっているのに加え、主人公・加藤哲太郎役の中村獅童が好きでないわたしには、感情移入できなかった。感動したのは哲太郎の妹の勇気と思想性だ。
以前から更新のたびに閲覧している「醍醐聰のブログ」(08/26)に「私は貝になりたい」(日本テレビ放映)はBC級戦犯の叫びをどこまで伝えたか?というエントリーがアップされている。

それによると、上記の番組「私は貝になりたい」(日本テレビ)について加藤哲太郎の妹・不二子さんから「ぜひ視てほしい」という電話があり、日本テレビの下請けの制作会社の若いスタッフが原作を読んで感銘し、ぜひ取り上げたいといって取材に訪れたいきさつを聞いた、という。
その企画者の満足できる番組内容になっているとは思えない。
「真実の手記」とうたいながら、番組のラストに「フィクションです」という断りがあったと記憶している。整合性に欠けるのではないか。
このドラマは原作とは別物、といってさしつかえないと思う。

岡本愛彦が、「終戦記念特別ドラマ」と冠した07年版「私は貝になりたい」を観たら、
テレビは人間の歴史の中で、毒にも薬にもならないものになってしまった
と、繰りかえしいうのであろうか。

本シリーズを担当した川本裕司は、つぎのように結んでいる。

《視聴率という名の神に従順な、同じ顔をした番組がテレビにあふれる。顔が見える制作者の命がけの作品を、私はもっと見たい》

  *

余談である。
本シリーズの?に登場するNHK大阪放送局の福田雅子が制作した「差別からの解放」は1985年、地方の時代「映像祭」で特別賞を受賞した。3年後の1988年、差別戒名をとりあげた「風よ陽よ墓標に」でグランプリを受賞。
「風よ陽よ墓標に」でスタッフのひとりだった佐多光春はわたしの知人である。佐多はその2年まえの1986年、「トモコの小さな声〜ユージン・スミスが水俣で見たもの〜」(ETV8/NHK教育)で、同じく地方の時代「映像祭」で特別賞を受賞している。
彼が授賞式で表彰状を受けとる姿を眼にしたのは、いまとなっては想い出のひとつとなっている。また受賞が決まったことを電話で知らせてくれたときの彼の弾んだ声は、いまも耳底に残っている。

なぜそんなことを記しているのかというと、わたしは彼との出逢いによって、TVのむこう側に番組を制作している人間の存在を意識するようになったからである。したがっていい番組を観ると、制作した人間について想像してしまう。
それだけではなく、当時、彼の制作した番組について番組評を書き送っていたのだ。彼にそれを求められたからだが、彼の番組制作にかける情熱に圧倒された。虚勢を排して感じたままを記すという行為は、わたしにとっても貴重な体験だった。
ちょうどそのころから家庭用ビデオが普及しはじめたので、多くのドキュメンタリーを録画し、今日まで観つづけているのである。
佐多光春の名前をここに明記するのはかなり躊躇したが、2007年が彼にとってひとつの転機なので記すことにした。
本blogで、小田昭太郎に頼まれてもいないのにオルタスジャパン制作のTV番組について幾つか記しているが、じつに20年ぶりなのである。
佐多宛の番組評は私信なので本人しか読んでいないはずだが、ネット上に公開すると、少数といえども不特定多数が読むことになる。怖いのと同時に、予想できないことが起こりうるのがおもしろい。

じつは、つぎにアップするつもりで下書きの途中で止まっているのが、【岡本愛彦著『テレビよ、驕るなかれ』】なのだ。
先日、小田昭太郎にメールしたときに岡本愛彦について触れたところ、小田の日本テレビ時代から岡本が亡くなるまでの30有余年、大変お世話になった、という返信に驚いた。
それを受信するまえに読んでいた森口豁・「さよなら 岡本愛彦さん」(2004年11月13日)に描かれている岡本愛彦像と、小田昭太郎が返信に記していたそれとは合致する。
ちなみに岡本愛彦著『ジャーナリズムを叱る』(大阪経済法科大学出版部/1988年)には、小田昭太郎ディレクター(日本テレビ)や、上記の「風よ陽よ墓標に」が登場する。また岡本は、「ETV8」に注目していたという。これはNHK教育で(月〜金、午後8時)良質のドキュメンタリーが放映されていた番組である。いまは「ETV特集」になっている。
なお、岡本愛彦は記録映画「川越 ’82」で地方の時代「映像祭」第1回自治体部門賞を受賞している。

  *

遅ればせながら『私は貝になりたい』(加藤哲太郎/春秋社)を入手した。
初版は1994年10月25日で、わたしの手元にあるのは、2007年7月30日/新装版第二刷である。
巻末に「著作権紛争の経過資料」が収められている。

「加藤哲太郎略年譜」によると、1958年10月31日および12月21日の2回、橋本忍作、岡本愛彦演出「私は貝になりたい」を放映したTBSに対し、59年1月23日、橋本忍作「私は貝になりたい」は題名も筋立ても加藤哲太郎の原文を演釈し引き伸ばしドラマの各人物を配したものにすぎないことに気づき、社団法人日本著作権協議会仲裁委員会に申立書を提出し著作権の主張と解釈のための斡旋を依頼。
60年11月、TBSと和解覚書を交わし、タイトル表示を入れることを申し合わせる。

       原作 
           物語・構成  橋本  忍
           題名・遺書  加藤哲太郎

加藤哲太郎が記した詳細な「著作権紛争の経過資料」を読む限り、橋本忍とTBSにはあまり誠意が感じられない。加藤哲太郎のような「名もない作者の著作権」が認められるためには、闘争しなければならないということなのか。

なお、映画版「私は貝になりたい」(福澤克雄監督、2008年冬公開予定)では、こちらによると、橋本忍(89)が書き直した脚本は「より反戦メッセージが伝わりやすく、そして夫婦愛と家族愛を深く描いたものになった」という。


参考

私は貝になりたい - Wikipedia

加藤哲太郎 - Wikipedia


















miko3355 at 23:48│TrackBack(0)TV・ラジオ 

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