2009年12月23日

柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(前篇)

5月から6月にかけて下山事件に関する本を読んだ。
日本が占領下にあった1949(昭和24)年7月5日、初代国鉄総裁・下山定則(さだのり)が出勤途中に失踪し、翌日の7月6日午前零時20分ころ、常磐線五反野(ごたんの)駅近くの線路上で轢死体で発見された。
つづいて発生した三鷹事件、松川事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件という。

いまから4年まえ、「週間ブックレビュー」(BS2・2005/10/17)の特集に登場した、『下山事件 最後の証言』の著者・柴田哲孝にわたしは好感をもっていた。
単行本(2005年/祥伝社)に柴田哲孝が大幅に加筆・修正した、祥伝社文庫の『下山事件 最後の証言』(2007年)を入手し、気になりながら手つかずのまま放置していた。
わたしには苦手な分野だとの先入観があったからだ。
それから2年後、なにげなく読みだしたところ、おもしろすぎるのである。
わたしは人間と同様に本とも出逢いがあると思っている。
わたしには2009年に下山事件と出逢う必然性があったのだろう。

興に乗り、つづけて読んだ本はつぎのとおり。
『葬られた夏――追跡 下山事件』(諸永裕司・朝日文庫・2006年)
『下山事件(シモヤマ・ケース)』(森達也・新潮文庫・2006年)
『謀殺 下山事件』(矢田喜美雄・祥伝社文庫・2009年) ※単行本は1973年講談社刊
『夢追い人よ――斎藤茂男取材ノート1』(斎藤茂男・築地書館・1989年)

白洲次郎が下山事件の周辺に存在していたことを知り、入手したまま未読だった文藝別冊『白洲次郎』(河出書房新社・2002年)を読む。
加えて、以前から興味があった『おそめ 伝説の銀座マダム』(石井妙子・新潮文庫・2009年)を入手し、白洲次郎関連の本としても読む。
白洲次郎は「おそめ」の常連客だった。
三浦義一は「おそめ」のママである上羽秀(うえば・ひで)にぞっこんで、秀のまえでは少年のようだった、という話には笑えた。

下山事件からことしはちょうど60年。人間でいうと還暦である。
奇しくも8月の総選挙で政権交代し、下山事件の周辺にいた日米の人間たちによってつくられ、脈々とつづいてきた自民党はようやく寿命が尽きた。
鳩山政権は自然の流れとして、対米従属から脱する方向を示した。
いま、与党となった民主党の政治家たちには緊張感が感じられ、迅速に動いている。
ひとにやさしい社会を構築するのはむずかしいが、そちらに方向転換しようとしているようにみえる。
一方、いまもなお自民党の政治家たちの顔は弛緩している。
自民党が政権奪回する日はやってこないだろうと、政治に疎いわたしは思うのである。

柴田哲孝・諸永裕司・森達也の三者は交流があった。
行動をともにした場面を描いても、三者に差異があるところがおもしろい。
著作の刊行順は重要な要素で、諸永裕司→森達也→柴田哲孝である。
この三者だけでも複雑な関係性がある。
下山事件には彼らと較べようもない複雑な利権が絡んでいて、想像を絶する。

彼らに加えて斎藤茂男が重鎮として存在する。
共同通信の記者だった斎藤茂男(1928〜1999)は朝日新聞の記者・矢田喜美雄(1913〜1990)と、社の枠を超えてともに下山事件を追っていた。
両者は下山事件が時効をすぎても、真相究明に対する熱意が衰えることはなく、ともに「重篤な下山病患者」を自認していた。
自分の死期が近いことを自覚していた斎藤茂男は、「一方的に発表したり自分の取材に取り込む気はない、真相を知りたいだけなんだ」と訴えた。
斎藤は自分の病気のことを隠していたらしく、彼らは唐突に斎藤の死(1999年)を知らされ衝撃を受ける。
斎藤が生き延びて彼らの著作を読んだら、どのような感想をもつだろうか。

柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』

圧倒的におもしろく、幾度も読みかえした。
重くて切れのよい文体に魅了された。
会話の部分が活写されているので、小説を書けるひとだと思った。
人間を立体的に描いているので、愉しめるのである。
のちに知ったが、やはり小説も書いている。
アウトドア派で多才である。

本書はおもしろく読めるが、いざblogに書くとなると意外とむずかしい。文庫版で602ページという分厚い本に盛りこまれた緻密な内容と、下山事件の奥深さがその理由だ。
加えて、パソコンにむかってキーを打ちはじめると、猛烈な睡魔に襲われて作業をつづけることができない、という日々の連続だった。
下山事件には魔物が棲んでいるのかもしれない。

以下、本書から印象的な箇所を引用(要約)しながらわたしの感想を述べる。

祖父・柴田宏は下山事件にかかわっていた

柴田哲孝の祖父・柴田宏(ゆたか)は1970年7月1日、69歳で他界。
柴田哲孝が幼いころから異常なくらい慕っていた祖父は、スポーツ万能で、近所の少年たちとともに「ジイ君」と呼ばれ、英雄だった。

柴田哲孝は1991年7月、祖父の23回忌の法要で、大叔母・飯島寿恵子から祖父が下山事件にかかわっていたと知らされる。
この日から柴田哲孝は下山事件という迷宮に足を踏み入れた。
そこには幼いころから慕っていた祖父のべつの顔を知りたい、という欲望も含まれていた。

祖父・柴田宏は昭和18年から24年の夏まで、矢板玄の経営する亜細亜産業の役員だった。
祖父の妹・寿恵子も昭和23年の春まで、数年間、事務員として勤めていた。
亜細亜産業は絶対に身内からしか事務員を雇わなかった。
寿美子も入る時、業務内容に関しては多言しないという念書を入れている。
あの会社は下山さん以外にも殺されたとか、消されたという噂はいくらでもあったので怖い、という寿美子を根気よくなだめ、説得して、柴田哲孝は寿美子の口を開かせてゆく。

寿美子の話によると、亜細亜産業は戦後、機関車の部品を東武鉄道や国鉄に納めていた。
元々矢板玄の実家は材木商だったらしいから材木も扱っていたが、ほとんどは南洋材(ラワン材)で、柴田宏が担当してインドネシアから輸入し、それを使って家具を作っていた。
家具の半分はGHQに納め、あとの半分は家具屋やデパートでも売っていた。
三越には大きな家具売り場があって、そこに亜細亜産業のコーナーがあった。
(下山総裁は失踪当日の午前10時頃に三越3階の家具売り場で姿を目撃されている)
亜細亜産業は大量の雑油の配給を国から配給されていて、年間に「ドラム缶で数10本の単位」だった。
大半は他の工場などに横流ししていた。
(下山総裁の衣服には大量のヌカ油が染み込んでいた)
亜細亜産業では染料も扱っていた。いつも見本が置いてあった。
(下山総裁の衣類や靴などから塩基性の染料の粉が検出された)
亜細亜産業がGHQと取り引きがあったのは、「大砲の弾の部品」などの鉄工製品、家具、材木、樹脂製品などで、GHQからは砂糖を買っていた。

ライカビルは異次元の空間だった。
終戦後の物資が欠乏していた頃、本物の日本酒、高級ウイスキー、外国タバコなどが並んでいた。
3階のサロンに出入りしていたのは亜細亜産業の社員でも一部の重役だけで、柴田宏もその一人だった。
異常なほど羽振りの良かった亜細亜産業は、昭和23年頃になって急に景気が悪くなりはじめた。

1991年当時、柴田哲孝はライカビルはすでに取り壊されたものと思い込んでいたが、数年後、当時、週間朝日の記者・諸永祐司が探し出した。
諸永に誘われ、柴田哲孝はライカビルに足を運んだ。
昔から三越の南口と室町3丁目は地下道で結ばれていたので、それを通れば、ほとんど人目に触れずに行くことができた。
(下山総裁は大西運転手に見られずに、三越の南口からライカビルに行くことができた)

ライカビルは5階建ての細長いビルである。
正面に蛇腹式ドアの古いエレベーターがあり、右手には木の手摺りの階段がある。
亜細亜産業のオフィスがあった2階は、英国式のパブになっていた。
サロンがあった3階は、麻雀屋になっていた。
4階はごく普通の会社のオフィスになっていた。
昭和24年当時、4階には三浦義一主宰の「国策社」の事務所が看板を掲げ、「日本金銀運営会」という事務所があった。
帰りはエレベーターに乗り、2階のパブに寄った。
柴田哲孝は諸永祐司と混んだ店の窓際の小さなテーブルに座り、かつてこの場所に現存した亜細亜産業時代のオフィスを空想する。

(つづく)

miko3355 at 23:47│TrackBack(0) 

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この記事へのコメント

1. Posted by shameonu   2013年03月27日 19:23
>いま、与党となった民主党の政治家たちには緊張感が感じられ、迅速に動いている。

こういうのが残るのがネットの面白いところかなw

>自民党が政権奪回する日はやってこないだろうと、政治に疎いわたしは思うのである。

自己分析「だけ」は正確だったねw
2. Posted by miko   2013年03月28日 00:51
shameonuさま

いい方向で動いていた民主党の議員が、つぶされました。
自民党政権になり、原発推進の方向に進むのは愚かすぎます。
shameonuさまがわたしの認識の甘さを嗤うのは自由ですが、日本がとても危険な方向に進んでいるのは事実ですから。