2009年12月24日
柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(後篇)
中篇につづき、柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』から引用(要約)しながら、わたしの感想を述べます。
映像作家・森達也
柴田哲孝は映画監督・井筒和幸に下山事件について話したところ、テレビのドキュメンタリーのほうがいいとの理由で映像作家を名乗る森達也を紹介された。
柴田哲孝が森達也と最初に会ったのは、1994年の春頃。
同年秋頃、森達也を介して初めて斎藤茂男と会う。
2004年新潮社から刊行された『下山事件(シモヤマ・ケース)』で、森達也が柴田哲孝の母親の証言を捏造したことを、本書で柴田哲孝は指摘している。(p.400〜p.403)
柴田昇からの情報
単行本『下山事件 最後の証言』の刊行から半年後、祖父の末弟・柴田旬の次男である昇から電話があった。
犯行に使われた亜細亜産業の車・ナッシュ47型らしい写真がうちにあり、ナンバーまで写っているという。
亡き大叔父・旬は180センチを超える長身で、彫りが深い顔立ちをし、ダンディーな人だった。
柴田哲孝が昇の家を訪ねると、旬の妻と三男が待っていた。
宏と旬は不思議な兄弟で、家族にも知られたくない話がある時には、英語を使っていた。
大叔父・旬の仕事は表向きは通訳で、GHQのショーの司会も英語でこなしていた。
旬の妻は、背が高かったし、外人みたいな顔なので、仕事じゃない時にも進駐軍専用列車に乗っていた、と証言。
押し入れから取り出した古い大きなアルバムに、外国車の写真はあったが、生前、大叔父・旬のお気に入りだったというナンバーの写った写真は剥ぎ取られていた。
残る2枚の写真をアルバムごと借り出し、専門家に鑑定してもらうと、ナッシュ47型に酷似しているが、1946〜7年に作られた、クライスラーの「プリムス・デラックス・4ドアセダン」だった。
旬はこう推論する。
あの写真の車が下山事件に使われたので、親父はナンバーの写っている写真だけを処分した。洗足の家が下山事件総裁の家に近かったのも偶然ではなく、7月5日の事件当日、親父があの車で尾行した。
下山総裁が外人みたいな男に囲まれていたという記事の、その男は親父だ。
祖母・文子の死
柴田哲孝の祖母・文子が1995年8月に89歳で他界。
ひと月ほどたったある日、母・菱子とともに遺品の整理をした。
押し入れの奥にあった古い手提げ金庫には鍵がかかっていた。
箪笥のなかにあった鍵の束から1本ずつ金庫の鍵穴に差し込んでゆくと、何本目かの鍵が合致した。
ぎっしりと詰まった書類の一番底に分厚い封筒があり、「亜細亜産業」関連の品々が保管されていた。
上海での活動を示す紙幣、昭和18年から24年にかけての亜細亜産業の辞令・給与明細など。
小さな箱がひとつ入っていて、中から数個の宝石が出てきた。
蒼白になった母は、宝石のことも、祖父・宏が上海に行っていたことも知らなかった。
祖父・宏のアルバムには昭和17から18年の12月にかけて、長い空白がある。
下山事件で暗躍した男たちは、上海の経歴を持っている。
矢板玄、児玉誉士夫、長光捷治、里見甫、真木一英、村井恵、田中清玄、三浦義一、関山義人、そして柴田宏。
昭和40年頃、変装が得意な祖父・宏が頬に含み綿を入れ、見馴れない眼鏡をかけて哲孝と弟を追いかけ回していた。
ふたりの叫び声を聞きつけた祖母は祖父に掴みかかり、眼鏡をむしり取り泣き伏した。
祖父は下山事件当時49歳で身長は175センチ。下山総裁とほぼ同じ。
五反野南町の末広旅館の長島フクの証言が、下山総裁の自殺説の論拠とされた。が、柴田哲孝の母・菱子の記憶によると、長島フクから柴田宏に年賀状が来ていた。
亜細亜産業が下山事件に関与していたなら、長島フクの偽証が明らかになる。
末広旅館に立ち寄ったという下山総裁の替え玉は、変装した柴田宏だったのか?
柴田喬の証言
柴田哲孝は20年ぶりにジャズピアニストだった大叔父・喬(たかし)を訪ねる。
亜細亜産業で3年間事務員をしていた柴田八重子の元夫で、祖父・宏の弟。当時、80代なかばだが、若くみえる。
宏は7人きょうだいで、長男。あとは長女・和子、次女・寿恵子、次男・潔、三男・喬、四男・慶。
喬の話によると、宏が上海にいたのは昭和17年頃で、喬や潔と上海租界の同じ部屋に住んでいたこともあった。
その頃から宏は矢板玄といっしょに仕事をしていた。三菱商事の軍事物質の調達。
喬も上海で矢板玄と知り合った。
真木一英という殺し屋は矢板玄と柴田宏の仲間。
戦後、喬の妻・八重子が亜細亜産業に勤めていたので、喬も行ったことはある。
勤めないかと誘われたが、断った。あんなおっかない会社にはいられない。兄貴もよくいたと思う。
矢板玄は生ゴムや油を密輸していたといったが、喬の証言によると、亜細亜産業は麻薬を密輸していた。
下山事件は亜細亜産業が仕組んで、ライカビルに連れ込んだ。
殺害の実行犯として喬があげた名は、ひとりは日本人で、もうひとりはキャノン機関の日系二世の将校。
飯島進の証言
大叔母・寿恵子が1998年の年末に倒れ、恵比寿の厚生病院に入院する。
病院への見舞い帰りの夫・飯島に、柴田哲孝は斎藤茂男を紹介する。
恵比寿駅前の居酒屋で、飯島は台湾義勇軍の一件でも下山総裁と関わりがあったと証言。
斎藤茂男が下山事件に話を向けても、飯島はまったく乗らなかった。
飯島との話を終えて、柴田哲孝と斎藤茂男は喫茶店に席を移した。
斎藤茂男はそろそろ腹を割って話しませんか、真実が知りたいだけなんですよ、わたしにはもう時間がないんです……と訴える。とくにキャノンについての情報を斎藤茂男は聞きたい様子。
このとき柴田哲孝は「時間がない」という言葉の真意を知らなかった。
柴田哲孝は、ここだけの話で、メモを取らないことを条件に、約2時間、知りうる限りのことを斎藤茂男に話した。
斎藤茂男はそれらを噛みしめるように聞く一方で、積極的に自分の知識や意見を返してきた。
柴田哲孝は、下山総裁の拉致はキャノン機関の権限内の行動で、犯行グループにとっての保険であり、キャノン主犯説を主張しているのはCIAだという。
ふたりは、キャノンはスケープゴードにされたという共通認識をもつ。
その夜の斎藤茂男はいかにも楽しそうだった。
「下山病患者に効く薬は下山事件に関する情報だ」という斎藤茂男にとって、きわめて有効な薬だったにちがいない。
1999年5月7日、大叔母・寿美子が74歳で逝く。
3週間後の5月28日、斎藤茂男も71歳で逝く。
2000年の年が明けてまもなく、柴田哲孝は大叔父・飯島進から誘われた。
「おまえの知りたいこと、何でも教えてやるよ」
子どものいない飯島は世田谷区駒沢の広い邸宅でひとりで暮らし、見る影もないほど憔悴していた。
毒でもあおるように顔をしかめながら酒を飲みつづける飯島は、明らかに妻・寿美子の後を追いたがっている。
飯島の話では、下山総裁の首謀者は「×某」で、実行犯グループと目される亜細亜産業のサロンの主要メンバーの一人。G2のウィロビーやキャノン中佐とも密接に交友していた人物。下山総裁を「裏切り者」と呼び「殺してバラバラにしてやる」と公言。運輸省鉄道総局時代からその利権に深く食い込み、小千谷の発電所の入札やその他の公共工事の中止で莫大な損失を被った人物でもあり、松川事件でも関与が噂された。
殺害現場にいた二人の実名は、以前に柴田喬から聞いた人物と同一で、キャノン機関のMという二世の将校と、一人の日本人。
替え玉に関しても、飯島は一人の人物の名前を挙げた。
最後に、「ジイ君は関わってたのかな……」という柴田哲孝の問いに、飯島はこたえた。
「兄貴は人を殺せるような人間じゃないよ。矢板さんもね。二人は利用されたんだと思うよ」
そして小さな声で呟く。
「みんな逝っちまった……。残っているのはおれだけだ」
〔参照〕
下山事件資料館
ぴゅあ☆ぴゅあ1949:下山事件
【追記 2010/01/16】
妻の寿恵子が亜細亜産業について語るのをいやがっていた飯島進がここまでの証言をしたということは、柴田哲孝のジャーナリストとしての姿勢・力量に打たれたからだろう。
飯島進以外の生き証人として、下山事件の実行犯のひとりだと目されるビクター・松井(元キャノン機関員)がいる。
朝日新聞の記者・諸永裕司は、「週間朝日」を担当していたときにアメリカに飛び、ビクター・松井のインタビューに成功する。
それが記されている諸永裕司著『葬られた夏――追跡 下山事件』について、近日中にアップする予定である。文庫本の解説を柴田哲孝が記している。
映像作家・森達也
柴田哲孝は映画監督・井筒和幸に下山事件について話したところ、テレビのドキュメンタリーのほうがいいとの理由で映像作家を名乗る森達也を紹介された。
柴田哲孝が森達也と最初に会ったのは、1994年の春頃。
同年秋頃、森達也を介して初めて斎藤茂男と会う。
2004年新潮社から刊行された『下山事件(シモヤマ・ケース)』で、森達也が柴田哲孝の母親の証言を捏造したことを、本書で柴田哲孝は指摘している。(p.400〜p.403)
柴田昇からの情報
単行本『下山事件 最後の証言』の刊行から半年後、祖父の末弟・柴田旬の次男である昇から電話があった。
犯行に使われた亜細亜産業の車・ナッシュ47型らしい写真がうちにあり、ナンバーまで写っているという。
亡き大叔父・旬は180センチを超える長身で、彫りが深い顔立ちをし、ダンディーな人だった。
柴田哲孝が昇の家を訪ねると、旬の妻と三男が待っていた。
宏と旬は不思議な兄弟で、家族にも知られたくない話がある時には、英語を使っていた。
大叔父・旬の仕事は表向きは通訳で、GHQのショーの司会も英語でこなしていた。
旬の妻は、背が高かったし、外人みたいな顔なので、仕事じゃない時にも進駐軍専用列車に乗っていた、と証言。
押し入れから取り出した古い大きなアルバムに、外国車の写真はあったが、生前、大叔父・旬のお気に入りだったというナンバーの写った写真は剥ぎ取られていた。
残る2枚の写真をアルバムごと借り出し、専門家に鑑定してもらうと、ナッシュ47型に酷似しているが、1946〜7年に作られた、クライスラーの「プリムス・デラックス・4ドアセダン」だった。
旬はこう推論する。
あの写真の車が下山事件に使われたので、親父はナンバーの写っている写真だけを処分した。洗足の家が下山事件総裁の家に近かったのも偶然ではなく、7月5日の事件当日、親父があの車で尾行した。
下山総裁が外人みたいな男に囲まれていたという記事の、その男は親父だ。
祖母・文子の死
柴田哲孝の祖母・文子が1995年8月に89歳で他界。
ひと月ほどたったある日、母・菱子とともに遺品の整理をした。
押し入れの奥にあった古い手提げ金庫には鍵がかかっていた。
箪笥のなかにあった鍵の束から1本ずつ金庫の鍵穴に差し込んでゆくと、何本目かの鍵が合致した。
ぎっしりと詰まった書類の一番底に分厚い封筒があり、「亜細亜産業」関連の品々が保管されていた。
上海での活動を示す紙幣、昭和18年から24年にかけての亜細亜産業の辞令・給与明細など。
小さな箱がひとつ入っていて、中から数個の宝石が出てきた。
蒼白になった母は、宝石のことも、祖父・宏が上海に行っていたことも知らなかった。
祖父・宏のアルバムには昭和17から18年の12月にかけて、長い空白がある。
下山事件で暗躍した男たちは、上海の経歴を持っている。
矢板玄、児玉誉士夫、長光捷治、里見甫、真木一英、村井恵、田中清玄、三浦義一、関山義人、そして柴田宏。
昭和40年頃、変装が得意な祖父・宏が頬に含み綿を入れ、見馴れない眼鏡をかけて哲孝と弟を追いかけ回していた。
ふたりの叫び声を聞きつけた祖母は祖父に掴みかかり、眼鏡をむしり取り泣き伏した。
祖父は下山事件当時49歳で身長は175センチ。下山総裁とほぼ同じ。
五反野南町の末広旅館の長島フクの証言が、下山総裁の自殺説の論拠とされた。が、柴田哲孝の母・菱子の記憶によると、長島フクから柴田宏に年賀状が来ていた。
亜細亜産業が下山事件に関与していたなら、長島フクの偽証が明らかになる。
末広旅館に立ち寄ったという下山総裁の替え玉は、変装した柴田宏だったのか?
柴田喬の証言
柴田哲孝は20年ぶりにジャズピアニストだった大叔父・喬(たかし)を訪ねる。
亜細亜産業で3年間事務員をしていた柴田八重子の元夫で、祖父・宏の弟。当時、80代なかばだが、若くみえる。
宏は7人きょうだいで、長男。あとは長女・和子、次女・寿恵子、次男・潔、三男・喬、四男・慶。
喬の話によると、宏が上海にいたのは昭和17年頃で、喬や潔と上海租界の同じ部屋に住んでいたこともあった。
その頃から宏は矢板玄といっしょに仕事をしていた。三菱商事の軍事物質の調達。
喬も上海で矢板玄と知り合った。
真木一英という殺し屋は矢板玄と柴田宏の仲間。
戦後、喬の妻・八重子が亜細亜産業に勤めていたので、喬も行ったことはある。
勤めないかと誘われたが、断った。あんなおっかない会社にはいられない。兄貴もよくいたと思う。
矢板玄は生ゴムや油を密輸していたといったが、喬の証言によると、亜細亜産業は麻薬を密輸していた。
下山事件は亜細亜産業が仕組んで、ライカビルに連れ込んだ。
殺害の実行犯として喬があげた名は、ひとりは日本人で、もうひとりはキャノン機関の日系二世の将校。
飯島進の証言
大叔母・寿恵子が1998年の年末に倒れ、恵比寿の厚生病院に入院する。
病院への見舞い帰りの夫・飯島に、柴田哲孝は斎藤茂男を紹介する。
恵比寿駅前の居酒屋で、飯島は台湾義勇軍の一件でも下山総裁と関わりがあったと証言。
斎藤茂男が下山事件に話を向けても、飯島はまったく乗らなかった。
飯島との話を終えて、柴田哲孝と斎藤茂男は喫茶店に席を移した。
斎藤茂男はそろそろ腹を割って話しませんか、真実が知りたいだけなんですよ、わたしにはもう時間がないんです……と訴える。とくにキャノンについての情報を斎藤茂男は聞きたい様子。
このとき柴田哲孝は「時間がない」という言葉の真意を知らなかった。
柴田哲孝は、ここだけの話で、メモを取らないことを条件に、約2時間、知りうる限りのことを斎藤茂男に話した。
斎藤茂男はそれらを噛みしめるように聞く一方で、積極的に自分の知識や意見を返してきた。
柴田哲孝は、下山総裁の拉致はキャノン機関の権限内の行動で、犯行グループにとっての保険であり、キャノン主犯説を主張しているのはCIAだという。
ふたりは、キャノンはスケープゴードにされたという共通認識をもつ。
その夜の斎藤茂男はいかにも楽しそうだった。
「下山病患者に効く薬は下山事件に関する情報だ」という斎藤茂男にとって、きわめて有効な薬だったにちがいない。
1999年5月7日、大叔母・寿美子が74歳で逝く。
3週間後の5月28日、斎藤茂男も71歳で逝く。
2000年の年が明けてまもなく、柴田哲孝は大叔父・飯島進から誘われた。
「おまえの知りたいこと、何でも教えてやるよ」
子どものいない飯島は世田谷区駒沢の広い邸宅でひとりで暮らし、見る影もないほど憔悴していた。
毒でもあおるように顔をしかめながら酒を飲みつづける飯島は、明らかに妻・寿美子の後を追いたがっている。
飯島の話では、下山総裁の首謀者は「×某」で、実行犯グループと目される亜細亜産業のサロンの主要メンバーの一人。G2のウィロビーやキャノン中佐とも密接に交友していた人物。下山総裁を「裏切り者」と呼び「殺してバラバラにしてやる」と公言。運輸省鉄道総局時代からその利権に深く食い込み、小千谷の発電所の入札やその他の公共工事の中止で莫大な損失を被った人物でもあり、松川事件でも関与が噂された。
殺害現場にいた二人の実名は、以前に柴田喬から聞いた人物と同一で、キャノン機関のMという二世の将校と、一人の日本人。
替え玉に関しても、飯島は一人の人物の名前を挙げた。
最後に、「ジイ君は関わってたのかな……」という柴田哲孝の問いに、飯島はこたえた。
「兄貴は人を殺せるような人間じゃないよ。矢板さんもね。二人は利用されたんだと思うよ」
そして小さな声で呟く。
「みんな逝っちまった……。残っているのはおれだけだ」
〔参照〕
下山事件資料館
ぴゅあ☆ぴゅあ1949:下山事件
【追記 2010/01/16】
妻の寿恵子が亜細亜産業について語るのをいやがっていた飯島進がここまでの証言をしたということは、柴田哲孝のジャーナリストとしての姿勢・力量に打たれたからだろう。
飯島進以外の生き証人として、下山事件の実行犯のひとりだと目されるビクター・松井(元キャノン機関員)がいる。
朝日新聞の記者・諸永裕司は、「週間朝日」を担当していたときにアメリカに飛び、ビクター・松井のインタビューに成功する。
それが記されている諸永裕司著『葬られた夏――追跡 下山事件』について、近日中にアップする予定である。文庫本の解説を柴田哲孝が記している。
miko3355 at 00:04│TrackBack(0)│本
トラックバックURL
この記事へのコメント
1. Posted by kkos 2011年10月04日 11:07
末広旅館が五反野南町というのは、どこからの情報でしょうか?
私は千住末広町だと思っていたのですが。(当時の新聞記事や昭和35年の住宅地図から)
私は千住末広町だと思っていたのですが。(当時の新聞記事や昭和35年の住宅地図から)
2. Posted by miko 2011年10月07日 02:35
kkosさま
コメントありがとうございます。
失礼ですが、あなたはblog「報國挺身日記」の運営者ですか?
ご指摘のとおり、末広旅館の住所は「足立区千住末広町75」ですね。
わたしが「五反野南町」と本blogに書いた根拠は、いまとなっては定かではありません。
柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』から引用したはずなのですが、ざっと調べましたら、「五反野という住所にも憶えがあった」という彼の母親の記憶を、文庫版の172ページに記していることしかわかりませんでした。
答えにならなくて、申しわけございません。
コメントありがとうございます。
失礼ですが、あなたはblog「報國挺身日記」の運営者ですか?
ご指摘のとおり、末広旅館の住所は「足立区千住末広町75」ですね。
わたしが「五反野南町」と本blogに書いた根拠は、いまとなっては定かではありません。
柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』から引用したはずなのですが、ざっと調べましたら、「五反野という住所にも憶えがあった」という彼の母親の記憶を、文庫版の172ページに記していることしかわかりませんでした。
答えにならなくて、申しわけございません。
3. Posted by kkos 2011年10月07日 23:09
mikoさま
はい、その日記の本人です。
突然の質問にも関わらず、住所の件を調べて頂いてありがとうございました。
東電OLのエントリを興味深く読ませて頂きました。色んなコメントがあるものだと感心しました。
はい、その日記の本人です。
突然の質問にも関わらず、住所の件を調べて頂いてありがとうございました。
東電OLのエントリを興味深く読ませて頂きました。色んなコメントがあるものだと感心しました。